店主たみこの観光案内日記

埴生護国八幡宮

2019年09月14日

埴生護国八幡宮

 

小矢部(おやべ)のちょびっと山の方に入った所にとーっても由緒正しい神社があります。
埴生護国八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)です。

 

社伝によると創建は718年。
奈良時代がスタートしてすぐくらいの頃。
八幡宮の総本宮である、大分県の宇佐神宮から勧請(かんじょう)してきたのが始まりだそうで。
「勧請」ってのはアッチの神社からコッチの神社へと神様を分霊することで、まるでロウソクの火を移し渡すみたいに簡単にできてしまいます。
八幡宮、天満宮、稲荷神社など、全国に同じ名前の神社がたくさん存在するのはこのシステムのため。
そして勧請しても神様のパワーに変わりはなく、どこの神社へ行っても同じご加護が得られるのだとか。

 

こうして生まれた埴生護国八幡宮。
霊験あらたかと言うか、その後数々のご利益を授けてきました。
特にご自慢なのが、源平の合戦で活躍した木曽義仲の大勝利。
かつてこのすぐ近くで源氏と平氏の大激突があって、その時の源氏方の総大将が木曽義仲でした。
相手の兵力は実に2倍。
普通に戦ったらとても勝てない!
そこでこの埴生護国八幡宮に来て戦勝祈願のお参りをしたのです。
するとまさかのボロ勝ち!
そんな縁からこの神社は木曽義仲を看板代わりに使っており、入口正面には巨大な騎馬像がどどーん!と建っています。

 

その他にも蓮沼城主だった遊佐慶親に石段を作ってもらったりだとか。
富山城主だった佐々成政から寄進を受けたりだとか。
加賀の前田の殿様に社殿を作ってもらったりだとか。
時代時代の為政者や有力者達から厚い庇護を受け続けてきました。

 

その証となるのが、今も残る古文書の数々。
境内の片隅に宝物殿があって、そこには木曽義仲の祈願書や佐々成正の寄進状など、合計45点もの文書が残っています。
基本閉まっていて入れませんが、事前にお願いすれば中を見せてもらえるそうで。
まあ見せてもらったところで、古文書のうねうね文字なんて読めんけどね(笑)。

 

そんな古文書もいいけれど、やっぱり何と言っても必見なのは建物。
これがシッブイんですわ!

 

建物正面、まず目に入るのは入母屋屋根。
すらりときれいな反りを描いた大屋根は、長い歴史を感じさせる風格むんむん!
仕立てはこけら葺き。
神社って、多分耐用年数とメンテナンスの関係からだと思うんだけど、一般的には銅板屋根が主流。
でも銅ってのは金属なので、どこか無機質なんですわ。
その点こけら葺きは木皮なので見た目に優しく温かく。
どこか生命感を感じさせる柔らか~な印象を与えてくれます。

 

そして軒下の細工もカッコイイ!
特に組み物の見事さ。
柱と梁を組み合わせる部分を 斗栱<(ときょう)と呼ぶのですが、これががっしり力強く、造形的にも美しく。
いわゆる三斗組(みつどぐみ)って組み方になってて、それらがズラズラズラっと横一列に並んでて、まー素晴らしい!
見てるだけでため息♪

 

さらにこの神社、拝殿への出入りが自由になってます。
一般的に拝殿の中って、非公開か入れないように柵がしてあるんですけどね。
勝手にどうぞー、って感じで開放されています。


その拝殿の先には釣殿(つりでん)→幣殿(へいでん)→本殿の建物が続き、中が全部見通せます。

要するにすべての扉が開けられているのですが、これも珍しい事で。
神社の本殿なんてもったいつけたように隠してあるのが普通。
それがここでは丸見え。
唖然とするくらいオープンです。



1,000年以上の歴史を誇る埴生護国八幡宮。
だけど肩ひじ張らず、威張ったところもなく。
参拝者ファーストなフレンドリーな神社です。
ご訪問の際にはどうかそのゆる~い空気をじっくりとご堪能ください。

 

境内入口には鳩清水(はとしみず)なんて霊水の泉もあります。
なんでもここから3km先の滝から引っ張ってきてる水なんだとか。
『とやまの名水五十五選』にも選ばれているほどの名水です。
夏の暑い日はこの冷たーい水で喉を潤せば、体がシャキッと蘇りますよ!

 

 

埴生護国八幡宮

住所:富山県小矢部市埴生 2992

TEL:0766-67-1220

 

 

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玄宮園

2019年09月07日

玄宮園

 

彦根城のすぐ隣に立派な大名庭園があります。
玄宮園です。

 

彦根藩4代目藩主井伊直興(いい なおおき)の造園から始まり、その後11代目の井伊直中(いい なおなか)が隠居屋敷を建てた際、ほぼ現在の形ができあがったと言われています。
中央の大池を軸にしつらえた池泉回遊式となっており、彦根城を借景に、水・岩・木立などが悠々と広がる眺めを楽しめます。

 

これがも~いいのですわ♪

 

まず目を引くのは、何と言っても園の中心にある大池。
なみなみと水をたたえ、広大かつ奥行きがあり、幽玄なムードむんむん!
まるでここだけ時間がゆっくりと流れているかのような、独特の空気感。

 

オススメのビュースポットは、一番奥の飛梁渓(ひりょうけい)からの眺めです。
目の前に広がる大池と背後にそびえる彦根城天守との近遠のコントラストが実にダイナミックで、見応え満点!
それだけでひとつの日本画を見ているような、素晴らしい景観が楽しめます。

 

さらにもうひとつの見所が橋。
見所と言うか、まあ渡るんですが、橋だけに。
なんかね、いい感じなんですわ、この橋の雰囲気が。

 

橋梁が描くゆるやかなアーチは、直線が連続する都会の気ぜわしさとは真逆の落ち着きを生み。
木のぬくもりは、コンクリートやアスファルトに囲まれた現代社会の圧迫感を忘れさせ。
橋上から見下ろす水面の輝きは、ネオンのうるさい光にはない柔らかさ。
日常生活のどこかに置いてきてしまったような、温かさに満ちた世界がそこにあります。

 

もうホント歩いてるだけで。
心癒されますよ!

 

ところでちょっと考えて欲しいのですが。
お城と大名庭園のセットって、結構全国にありませんか?
金沢城兼六園もそうだし、岡山城と後楽園なんかもそう。
一体なぜか?
それにはちゃんと理由がありまして、いざ戦となった際、庭は曲輪や出城として転用できるからです。
城と大きな庭がセットで存在するのはそのためです。

 

でもなぜ庭なのか?
曲輪や出城が必要なら、初めから曲輪や出城を造ればいいじゃないかと思われるでしょう。
しかし事態はそんなに簡単ではなく。
徳川幕府により「武家諸法度」という面倒くさ~いモノが出されてて、容易に城の防備を強化できない事情があったのです。
下手に城をいじったり防衛施設なんかを作って幕府に目を付けられようモンなら、そりゃもう大変!
叛意ありと見なされて、改易や御家取り潰しの口実にされてしまいます。
だけど城の守りは強化したい。
そこで全国の大名達は、武家諸法度で規制されていない庭園の整備をせっせと進めたのです。
表向きは庭、裏の目的は出城という訳ですな。
ただご存知の通り、江戸の太平は250年間続き、結局庭は最後まで庭に終わったのですが。



彦根城の裏の出城玄宮園。
大名庭園らしい広大な敷地は散策に最適です。
風光明媚な眺めを楽しみながら、どうかゆっくりとご鑑賞ください。

 

すぐ隣には大名屋敷の楽々園(らくらくえん)があります。
こちらも江戸情緒満点!
どうか彦根城と合わせて3点セットで訪れてみてください。

 

 

玄宮園

住所:滋賀県彦根市金亀町 3

TEL:0749-22-2742

 

 

関連タグ >> 庭園 彦根城 玄宮園 

 


小松城 天守台

2019年08月31日

小松城 天守台

 

かつてここ石川県には、金沢城を超える規模のお城がありました。
小松城です。

 

元々は若林長門守が加賀一向一揆の拠点として築城したのが始まりと言われています。
低湿地帯を利用した堅固な城で、強力な防御力を備えていました。
しかし織田信長配下の柴田勝家によって、1579年に落城。
その後村上頼勝(むらかみ よりかつ)→丹羽長重(にわ ながしげ)と城主が移り、最後は加賀前田家の所有となりました。
そのまま前田家によって受け継がれていけばいいのですが、ここでひとつの事件が起こります。
幕府による一国一城令です。
ひとつの藩に城はひとつしか認めん!という厳し~~お触れ。
当然幕府には逆らえず、小松城は一旦廃城とされます。

 

この一国一城令で、全国に3,000あった城が一気に170にまで激減したんだとか。
現代のお城好きにとってはまさに悪魔の法令。

 

しかし!!!
小松城はなんと復活します。

 

復活の救世主は加賀藩三代目藩主前田利常。
隠居して金沢から小松に移り住むから、築城の許可をくれと幕府にかけあった所。
返事はなんと「OK」!
これはもう奇跡的な事で。
ひとつの藩に城はひとつしかいらん!今ある城も改築増強は許さん!という情勢の中で、まさかの「新築いいですよ~」の認可ですからね。
一体裏でどんな根回しがあったんですかね?

 

こうして出来上がったのが第2期小松城。
その規模広大で。
敷地面積は金沢城のほぼ2倍!
デカすぎ!(笑)

 

しかもただデカいだけでなく、防衛機能も強力。
城の周囲をこれでもかってくらい水堀で囲みまくりました。
いわゆる水城ってヤツですね。
これだけ水でグルグルに囲まれると、例え大軍で攻めてもちまちまとしか兵を送り込めず、数の優位を生かせなくなり。
一方で守る側は、少数でも粘り強く抵抗できて。
まさに難攻不落を絵に描いたような城でした。

 

とは言え江戸時代。
もう戦はありません。
せっかく作った大要塞も使い所なく、結局は利常の遊び場となってしまいました。

 

その一つがこの天守台。
デカくて頑丈。
その気になれば五重の天守が建てられるほどの立派な土台なんだそうですが、ここに建てられたのは二重三階の数奇屋造りの質素な櫓。
中にはゆったりくつろげる座敷なんかがあったりして。
全然戦争意識してない(笑)。
その他にも城内には利常好みの茶室や庭なんかも設けられたそうで。
なんとも緊張感のない、ゆる~い城だったようです。

 

この城は明治時代まで維持されたものの、現代に入って宅地化の波に飲み込まれ。
象徴だった水堀も失われ。
かつての姿はそのほとんど消えてしまいました。

 

残っていれば貴重な文化遺産だったんですけどね。
本当ぉぉ~~~~に残念です。



往時の巨城のかすかな痕跡、小松城天守台。
民家と学校に挟まれた、なんとも言えないチグハグな場所に唐突にポツンとあるのですが。
大事な大事な歴史の足跡です。
どうかじーーーっくりとご鑑賞ください。

 

すぐそばには同じく小松城の名残りである芦城公園があります。
こちらもなかなか見応えがありますので、ぜひ合わせて訪問してみてください。

 

 

小松城

住所:石川県小松市丸の内町

 

 

関連タグ >> お城 

 


徳田秋聲記念館

2019年08月24日

徳田秋聲記念館

 

金沢三文豪と呼ばれる徳田秋声、泉鏡花、室生犀星。
その徳田秋声を紹介する施設が徳田秋聲記念館です。(「聲」は「声」の異体字)

 

場所は浅野川のほとり、梅ノ橋のすぐたもとにあります。
建物は土塀に囲まれた茶壁+黒瓦のシックな外観。
国の重伝建に指定されている金沢ひがし茶屋街の古い町並みに溶け込むよう、渋~いデザインに仕立てられています。

 

ところで徳田秋声ってご存知ですかね?
明治末期~昭和初期にかけて活躍した文筆家で、代表作は「黴(かび)」「爛(ただれ)」「あらくれ」など。
泉鏡花と共に尾崎紅葉門下の四天王と称され、数々の自然主義作品を発表しました。
ただその人生は決して平坦なものではなく、数度の浮沈を繰り返す破天荒なもので。
特に今でも語り草とされているのが、年下の弟子・山田順子とのスキャンダル。
なんでも30歳も年下の女性だったんだとか。
そりゃ周りは面白おかしく騒ぎ立てますわな。
しかしそんな関係も2年ほどで終わり、今度は文壇を離れてダンス生活をスタート。
ダンスですよダンス、60過ぎて。
それも仕事もせんと。
周囲からは冷た~い目が注がれたそうです。
そんな生活を数年続けた後、ようやく気持ちが持ち直したのか創作活動を再開。
「町の踊り場」「和解」などの晩年作品を発表し、最後は肋膜癌で世を去ります。
昭和18年、享年73歳の人生でした。

 

まあいつの世も芸術家さんてのはアレね。
酒と女が好きなのね(笑)。(酒は登場してないけど)

 

そんな秋声の生涯と作品をたどれる徳田秋聲記念館。
1階は「秋聲と金沢」や「再現書斎」などがあり、作品の世界観や生み出された時代感なんかが体験できます。
特に目を引くのが「和人形シアター」。
謎なのっぺらぼうねーさんの人形が数点展示されています。
これらは秋声の作品に登場するヒロインなんだそうで。
ちょっと暗めの照明効果もあり。

 

怖い。(←!)

 

2階はふたつの展示室と映像コーナー。
常設展は秋声の遺品を追いかけながら、その生涯を辿れる趣向になっています。
企画展では年数回展示物の入れ替えが行われ、その時々に応じたテーマ内容が見られます。



金沢三文豪の一人、徳田秋声。
全国的には少々マイナーかもしれませんが、金沢が生んだ偉人の一人。
どうかその作風と人間と人生にじっくりと触れてみてください。

 

歩いてすぐの場所に金沢が誇る観光名所のひとつ、ひがし茶屋街があります。
江戸期の雰囲気を残した木造町家建築がざっと居並ぶ景観は爽快。
こちらも忘れずにご訪問を!

 

 

徳田秋聲記念館

住所:石川県金沢市東山 1-19-1

TEL:076-251-4300

 

 

関連タグ >> 美術館・博物館 

 


大野灯台

2019年08月17日

大野灯台

 

日本5大醤油産地って知ってますかね?
千葉の野田と銚子、兵庫の龍野、香川の小豆島、そしてここ石川の大野です。

 

((一般的には4大産地と呼ばれてるのに、そこに大野が無理矢理割り込んで5大産地と称してる感もあるけど、そこには触れない)←と触れる)

 

そんな大野の港ににょきっと立ってる白い塔があります。
大野灯台です。

 

ここ大野の町はかつては北前船の寄港地で、当時は港町として大変賑わっていました。
北から南から様々な物資が集まって来る、加賀百万石の海の玄関口だったのです。
醤油産業が発展したのも、そうした物資調達の容易さ、物流の容易さが大きく起因しています。
今じゃ小さな漁船がぽっぽと通る程度になっちゃいましたけどね。

 

そこに灯台の元ができたのは明治11年の事。
この町に住んでいた浅勘七って人が、個人的に灯竿(とうかん)を建てたのが始まりだそうです。

 

灯竿って言われても、多分知らない人の方が多いでしょう。
簡単に言えば、先っちょに光源をを備えた竿の事です。
これが建物なら「灯台」となります。
なのでこの大野灯台も元から立派な建物が建ってた訳ではなく、最初は貧祖な竿からスタートしたって事ですね。
しかしいざ設置してみるとなかなか使い勝手が良かったらしく、その後幾度もバージョンアップを重ね。
管理も個人から公的機関へと移り、昭和28年、現在の立派な灯台が出来上がったのです。

 

一番の特徴は形状。
柱部分が四角形なんです。
四角形ですよ!
よーく考えてみてください、普通灯台って円柱形じゃありませんか?
でもここの灯台は四角形なんです。
海風がモロにぶち当たる海岸線に建てるんだから、力を受け流せる円柱形の方が力学的に絶対有利だと思うんですけどね。
なぜか四角形。
理由は良く分かりませんが、多分設計者のセンスなのでしょう。

 

そしてこの四角形、その奇抜な形が灯台ファンに受けまして。
平成10年に選定された「日本の灯台50選」の中のひとつに選ばれました。
四角いってだけで。

 

四角形!
恐るべし!(←謎)



醤油の町大野を陰ながら支えてきた大野灯台。
その美しい四角形のフォルムに、どうぞ心行くまでご感動を!

 

なお年に何回かは内部公開をしているら・し・い・ですが。
詳細は不明。
海の日もそのひとつのはずですが、少なくとも今年は公開してませんでした。
もうやってないのかも?

 

海上保安庁さん。
わたしまだ中見たことないので。
内部公開お願いしまーす!

 

 

大野灯台

住所:石川県金沢市大野町 4

 

 

 


 


 

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