東山菅原神社 女子をシアワセにする神社?
2020年09月09日
ひがし茶屋街のちょっと奥に入ったところに、宇多須神社(うたすじんじゃ)があります。
まあまあの存在感。
でもよく見るとその向かいにもちっちゃい神社があります。
宇多須神社が目立ってる分、すご~く地味。
それが東山菅原神社です。
御祭神はその名の通り菅原道真、つまり天神さまです。
元々はひがし茶屋街で働く芸妓たちの鎮守の神として創設されたのだそうです。
芸妓さんと天神さん、一見関係なさそうですが天神さまと言えば学問の神、そこから派生し芸事の神としてのご神徳もあるのだそうです。
多才ですな。
まず入口をずどっ!と飾るのが石鳥居。
丸柱を内側に傾け、笠木と島木(天頂の横に渡したパーツ)をすらっと上に反らせた明神鳥居。
神域の入口を雄々しく飾っています。
その鳥居の前には石段が3段。
この石段、何気なーくあるように見えますが、実は重要な意味があります。
これは「神は高座にいるよ」という象徴なのです。
たった3段かもしれませんが、ここに段差があるという事が重要であり、この石段を登るということは神の世界へと入って行くことになるのです。
境内に入ると松の木が生えています。
右にアカマツ、左にクロマツ。
これはかつての参道の様子を再現しています。
この神社、元々はここよりもっと山寄りの所にあって、その頃は参道が整備されていました。
その参道には右にアカマツ・左にクロマツがずらりと植えられ、アカマツを女・クロマツを男に見立て、そこを通ることは良縁に繋がると信じられていたのです。
今で言えば「恋のパワースポット」的な感じですね。
そんな昔の情景を今に伝えるのが、この2本の松なのです。
そして拝殿。
桁行3間・梁間2間、サイズ的にはごくコンパクトな建物です。
屋根は瓦葺きとなってますが、多分昔はこけら葺きだったと思われます。
横から見るとなんとなーくそんな痕跡があるし。
興味のある人は拝殿側面から屋根を見てみてください。
向拝は屋根が延長してそのまま突き出したシンプルな形。
その下には向拝柱と虹梁がすらっと配され、装飾はチョコチョコっと雲の彫り物が施されている程度。
さほどデラックス感のない、簡素な仕立て。
拝殿内部はこんな感じ。
奥が神棚になっており、中央にご神体である丸鏡が祀られています。
左下に見えるちっちゃい人形は随身像。
随身とは貴人を守るボディーガードです。
幣(ぬき・お祓いに使う棒)に隠れてて見えませんが、右側にももう1体あります。
こうして2体一対で、祭神である道真を守っているのです。
左側には獅子頭も見えます。
これはお祭りで使うものでしょう。
出番以外の時は、こうしてひっそりとお休みしています。
で、見て欲しいのがその獅子頭のすぐそばにあるもの。
な~んかあるの、分かります?
石ですね、石。
ぱっと見で分かると思うのですが、「アノ形」の石です。
これは陽石と呼ばれるもので、そのものズバリ男根の象徴です。
なんでも伝承では『ヲトコの無限のエネルギー』(←?)が宿っており、女の人がなでなですると幸せになれるんだそうです。
それって、むしろ幸せになるのはなでなでされた方・・・おっと、つまらない下ネタを言ってしまった(汗)。
ちっちゃいけど、色んな言い伝えの詰まった東山菅原神社。
ひがし茶屋街のすぐ裏手にありますので、近くまで来た時はぜひお参りしてみてください。
学業成就、芸事上達、良縁招来、さらに絶倫絶頂!(←何のご利益?)と効果絶大です!
あなたのバラ色の人生は、ひょっとしたらここから始まるかもしれませんよ!!
ちなみに陽石は祭りの時は外に出してくれるそうです。
マジでなでなでしたい女子は祭りの日に合わせて行ってみてください。
ヲトコは触んなよ!
大海西山弥生の里 弥生時代のムラ跡を散策
2020年09月07日
かほく市の山地に弥生時代終わり頃のムラの痕跡があります。
今から約1,200年前、そろそろ古墳が発現するくらいの頃。
それが大海西山(おおみにしやま)遺跡です。
現在は現場保全のために大海西山弥生の里として公園整備され、一部復元なども行われています。
ここ結構僻地でしてね、お、行くのか?行くのか?この細い道行くのか?みたいな狭路を通った先にあります。
対向車来たらアウトです。
勇気と譲り合いの精神を持って進んでください。(←?)
まず全体の構成を確認します。
里の造り自体はシンプルで、下に駐車場、そこから徒歩でとことこっと登った先に広場があって、それで終了です。
ただ遺跡全体の規模はこんなものではなく、南北に2ヵ所(南:約13,100平方メートル、北:約13,000平方メートル)が確認されています。
東京ドームが46平方メートルらしいので、280個×2くらいですかね。
なのでこの大海西山弥生の里は遺跡全体のごくご~く一部という事になります。
上の広場へ向かう途中でこんなのがあります。
「環濠(かんごう)」と呼ばれる堀の跡です。
砂利の部分がどうもそうらしいのですが、現在はご覧の通り埋められています。
堀の目的はもちろん防備。
他地域、他部族との争いに備えての防衛ラインでした。
弥生時代は稲作の普及に伴う共同体が形成され、その規模が徐々に大きくなり始めた時期でした。
そうすると一旦それらの集団同士が争いとなった場合の規模も当然大きくなり、備えもそれに合わせた強力かつ大きなものが必要とされました。
こうして生まれたのがムラをぐるりと囲む環濠でした。
ここ大海西山遺跡の場合は、延べ260メートルにも及んでいます。
鉄器の伝来は弥生時代と言われており、単純に考えるとこの頃既に鉄器はあったはずですが、ここは裏日本のド田舎。
この工事に豊富な鉄器が使われたとは考えにくく、恐らくは木とか石とか、ごく原始的な道具を使って建設が進められたものと思われます。
大変でしょうね、そんな効率の悪い道具でこんな山地の斜面を削って、さらに土を積み上げて溝を作るって。
そうとう強力な指導者がいて、かつ必要に迫られていないととても作れない。
それほど安全の確保というのは、当時の人たちにとって切実な死活問題だったのでしょう。
そんな環濠跡を横目に見ながらずんずん登って行くと頂上の広場に出ます。
ここがいきなり開けてまして、向こうまでずばっと見渡せます。
特に海が見える眺めが素晴らしくてね。
ちょっと向こうが日本海なのですよ。
天気のいい日はすご~く気持ちいいですよ!
そんな広場の中ほどに復元された土塁があります。
サイズは幅5メートル、高さ1メートルほど。
かつてはこんなのがムラ全体をぐるーっと囲んでいたんですね。
このタイプのムラは「環濠集落」と呼ばれ、ここ大海西山遺跡だけに留まらず日本全国に見られます。
元々のルーツは大陸にあり、朝鮮から移住して来た人々によってもたらされたと言われています。
規模は大小様々ですが、石川県内に関する限り、ここ大海西山遺跡のものが最大だそうです。
広場の奥に行くと復元住居があります。
バリバリに古代感全開な竪穴式住居。
昔はこんな建物の中に人が住んでいたんですね。
壁はなく、オール屋根。
素材は茅葺で、屋根上両端には煙出しと思われる穴があります。
夏は涼しそうだけど、冬は超~寒そう。
中はこんな感じ。
間仕切りなどなく、土間のひと間。
中央にわざとらしく(←?)土器なんかが置かれていますが、この位置で煮炊きを行っていたということなのでしょう。
左側に立てかけてある一輪車も当然弥生時代のものです。
当時の人々はこんな道具を使って重量物を運搬していました。
・・・んなワケない?(笑)
その復元住居の隣に住居跡があります。
こちらは建物ではなく、建物の形だけが分かるようになっています。
要するに柱の跡ですね。
四角形が一部重なっているのは、2棟の建物があったため。
どっちが先でどっちが後かは分かりませんが、一旦1棟目を建てた後、老朽化で潰れ、新たに建て直したのでしょう。
この頃の建物ってどのくらい持ったんですかね?
柱が掘っ立て柱(地面に直接打ち込む柱)なので、当然根元の腐りは早かったはず。
一般的には20~30年と言われていますが、この当時のものがそんなにもったかどうかはちょっと疑問。
10年もすればガタガタだったんじゃないですかね。
弥生時代のムラの跡が見られる大海西山弥生の里。
竪穴式住居と土塁の復元以外に特に目玉はないですが、でもすごーく雰囲気のいい場所です。
あんまり堅苦しく考えないで、ぜひ散歩気分で遊びに来てください。
なお場所によっては結構蚊がいますので。
夏場は防虫対策も忘れずに!
普香山 蓮昌寺 金沢で唯一いつでも大仏さまに会えるお寺
2020年09月05日
金沢四大仏。
極楽寺の阿弥陀如来坐像、浄安寺の阿弥陀如来坐像、玄門寺の阿弥陀如来立像。
そして最後のひとつがここ蓮昌寺(れんじょうじ)にある釈迦如来立像です。
場所は卯辰山寺院群の中程の山際。
細い坂道を登った先にあります。
ちょっと見付けにくいかもしれませんが、頑張って探してみてください。
まず参拝者を入口で出迎えるのがこの山門。
建立は1845年の江戸時代。
貫禄のある立派な高麗門です。
中央に大扉、左右にくぐり戸を設け、上部に黒瓦葺きの大屋根、左右にも瓦葺きの小屋根を乗せた、シンメトリー(左右対称)設計。
建材の木は経年による劣化でい~い具合に退色し、その中に錆びた黒金物の色調がシブく沈む。
カッコええじゃないですか~♪
ちなみに「高麗門」ってのは、前面の鏡柱と背面の控え柱との間に小屋根を設けた門の事です。
分かりやすく裏面から見たのがこの画像。
チョコっと突き出てる屋根があるでしょ?
この小屋根が高麗門の特徴になります。
なおここに小屋根がない場合は「薬医門」と呼ばれます。
その門の真正面にあるのがこちらの本堂。
造りとしてはご覧の通りごくシンプル。
上部は黒瓦を乗せた大振りな切妻屋根。
入口上の向拝には破風を設けず、屋根をそのまま延長しただけのざっくりとした形状。
その向拝下の向拝柱や虹梁(こうりょう)も、過度な装飾のない大人しい仕立て。
壁は白漆喰で上品に固め、腰部には荒格子の窓、下部には下見板張り。
オシャレな装飾と言えば、右側にかろうじて花頭窓がひとつ見えるくらいですかね?
まー地味です。
その本堂の左側はこんな感じ。
屋根の低い建物が横に伸びてます。
そしてその先にぴょこっと突き出た高い屋根。
この高屋根、なんでここだけ上に突き出てるか分かります?
アレがあるからなんですよ、アレ。
背の高いアレ。
はい、どどーん!と登場大仏さま。
身長4.85メートルのご立派サイズ!
いわゆる「丈六仏」ってヤツですね。
丈六とは1丈6尺を表し、メートル法に換算すると約4.8メートル。
この寸法は業界基準(←?)となっており、全国至る所で見ることができます。
このブログでも以前に妙成寺の丈六仏が登場しています。
なんで1丈6尺なのかというと、このサイズがお釈迦さまの身長と伝えられているから。
あくまで伝説ですけどね。
常識的に考えて4.8メートルの人間なんている訳ぁない。
誰が言い出したか知らんけど、話盛り過ぎですわね(笑)。
大仏さまのご尊顔です。
うっすらと半目を開け、口をきゅっと結び、穏やかな表情で衆生を見下ろしています。
いわゆる「入定相(にゅうじょうそう)」というヤツですね。
瞑想中のお顔と言われています。
とは言え、このお釈迦さまは立ってるので瞑想はしてないと思うけど。
そしてよ~く注目して欲しいのが光の当て方。
実はこの像の顔の真正面に窓があります。
というか、この像の顔の真正面「だけ」に窓があります。
なので他はうっすら暗くて、この像の顔周辺だけがぱーっと光って見えるのです。
像を見た時になんとな~く感じる神々しさ。
その裏には実はそんな隠された仕掛けが仕込まれているのです。
堂内の仕立てはごくごくシンプル。
ほぼ飾りなし。
大仏さまを収めるためだけのハコとなっています。
この大仏殿、もーちょっと派手にしたら全然印象変わるのにね。
あっけないくらい素っ気ない。
ただそれがある意味味と言うか、かえって宗教的な空気を作ってはいるんですけどね。
大仏さまの周囲には左右に3枚ずつ、合計6枚の仏画が掛けられています。
この6枚は連作になっており、釈迦の誕生から入滅(にゅうめつ・亡くなること)までの生涯が描かれています。
それぞれの内容は
1.釈迦懐妊
2.釈迦誕生
3.出家
4.悟りを開く
5.多くの人に仏の教えを説く
6.入滅
となっています。
今風で言えば6コマ漫画みたなもんですかね。
お釈迦様の人生をコンパクトに追った構成になっています。
身長4.8メートルの実物大(?)お釈迦さまに会える蓮昌寺。
金沢四大仏の中では唯一フリーに見られる大仏さまです。
卯辰山寺院群まで来たなら、ここは絶対忘れずにお参りください。
何度見ても。
圧倒されますゼ~~~♪
放生津八幡宮 色んなエッセンスがぎゅっと凝縮された奈良時代創建の古社
2020年09月02日
放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)は、創始天平18年(746年)と伝えられる古社です。
当時はまだ奈良時代、聖武天皇が全国に国分寺を作るとか、奈良に大仏さんを作るとか、そんな事をやってた頃です。
由緒書きによれば、大伴家持(おおとも の やかもち)が大分の宇佐八幡神から勧請(かんじょう・神さまを分霊していただいてくる事)して開いた、とされています。
大伴家持ですよ、大伴家持。
何した人かよー知らんけど(←?)、名前くらいはほとんどの日本人が知ってるあの大伴家持。
その人が創建に関わった神社ってんですから、やっぱハクが違いますわね。
まず入口にそびえるのがこの一の鳥居。
分かりますかね?屋根付きです。
鳥居なのに屋根付き。
しかも中央に唐破風(からはふ・飾り屋根)まで付いてる。
めっちゃ気合入ってますわ!
この鳥居は昭和31年の建立で、夢枕に「アッチの山のアノ辺に鳥居に使うのにイ~イ感じの木があるから、ソレ使え~」との託宣を受け、その神木を切り出して建てられたんだそうで。
実話かただのヨタ話かはそれぞれで自己判断してもらうとして、要は素材の木材からしてありがた~いモノを使ってんだよって事みたいです。
そう思うとどうです?
なんか霊威感じます??
そして境内の中央に構えるのがこの拝殿。
これがもうね、アートなんですわ、アート♪
建造は1863年、江戸時代の末期、大政奉還の3年前。
地元の大工、高瀬輔太郎(たかせ すけたろう)の手によるものとされています。
この人については全然知らんのですが、かなり高名な人で、大阪城の修復なんかにも関わったと言われています。
最大のアイキャッチは何と言っても屋根ですな。
黒瓦の大屋根がどーん!と社殿を覆う。
すらりと反りの入ったシャープなラインと、圧倒的なサイズが放つ威容はもう別格。
そしてその屋根の天頂にがっしりと腰を下ろす大棟。
これまたドデカく、いかつさ強烈。
まるで戦艦のような貫禄でパワフルな圧をガンガン放つ!
イカスわ~♪
内部はこんな感じ。
畳敷きの所が拝殿、奥の床貼りの所が幣殿(へいでん)ですね。
そもそも建物が大きいのでね、中の空間も広大なのですわ。
横に広く、縦も高く、それゆえに実寸以上の奥行き感があって。
なんか神威ありそ~~、みたいな。
アチコチに配された御簾や奉納画もいいですね。
神社特有の装飾が、神域としてのムードをむんむんと高める。
拝殿の前にはこんなのもあります。
「瀬織津姫(せおりつひめ)像」。
なんの神さまかイマイチよー分からんので調べてみたところ、天照大神(あまてらすおおみかみ)の荒御魂(あらみたま・攻撃的性質)で、汚れをはらう神さまとされています。
この神さまもやっぱり大伴家持と繋がっていて、かつて家持が東北の蝦夷(えみし)平定で苦境に陥った際、助けてくれたんだそうです。
そんな縁にあやかり、地元の彫刻家である齋藤尤鶴(さいとう ゆうかく)が制作・奉納したのがこの像なのです。
ちなみに像の奉納が2019年、入れ物のガラスケースの完成が2020年、そして現在2020年。
なので古い建物が並ぶ神社の中でここだけ飛び抜けてピッカピカ。
でもなんでですかね、そんなに違和感ないのですよ。
不思議~に溶け込んでいるというか。
やっぱ作品がいいんですかね?
拝殿の左横にも何やら意味深な建物があります。
霊松殿。
俗に言う宝物殿ですね。
この中にはきっと神社のお宝がいっぱ~い入ってんでしょうね。
見たいな~。
中見たいな~。
何入ってんのかな~?
見たいな~。
誰かこの神社とお知り合いって方、いませんか?
その反対側には小さな社(やしろ)が2つ建っています。
右が来名戸社(くなどしゃ)、左が火之宮社(ひのみやしゃ)。
まずは来名戸社から。
来名戸とは結界を守る神さまで、邪なるものを払う力を持っています。
祠の中を覗くと欠けてボロボロになった石仏がゴロゴロ置いてあり、どうもこの石仏が来名戸のご神体って事みたいです。
案内板によるとこれらは江戸時代に土地開発をした際、土の中から出てきたものなんだとか。
中には、これ普通に石でね?みたいなのも混ざってますが、まあ一応石仏って事みたいです。
そしてこちらがその隣にある火之宮社。
中には木造の神像が1体収められており、神さまの名前は「軻遇突智命(かぐつちのみこと)」と記されています。
軻遇突智命とは火の神さまで、日本を創造した伊弉冉命(いざなみのみこと)が産み落とした際、その炎の力で伊弉冉命自身が焼け死んでしまったと伝えられています。
それゆえに父親である伊弉諾命(いざなぎのみこと)の怒りを買い、その場で切り殺されてしまったんだとか。
そこだけ聞くとなんかダークなイメージですが、意外と日本中で信仰されてまして、その代表が愛宕神社。
火の神だけに火除け、つまり火事に遭わない神さまとして崇められています。
ここに祀られている意図も、恐らく神社の防火を願っての事でしょう。
紹介が最後になってしまいましたが、境内には社殿がもうひとつ。
祖霊社です。
これは何かというと、ここまで何度も名前の出てきた大伴家持自身を祀った社です。
家持にどんな霊力があるのかはちょっとよー分からんですが、家持の神威というよりも家持に対する敬意や親しみを込めて建てられたものなのでしょう。
家持さんの創った神社は1,000年以上経った今でもこうして地域を守ってくれてんですよ~、みたいな。
奈良時代から連綿とその信仰を守り続けてきた放生津八幡宮。
境内は広く、ゆる~っとした独特のリラックス感があります。
どうか肩ひじ張らず、軽~い気持ちでお参りください。
あっと最後にもうひとつだけ。
神社の中にはこんなものも飾られています。
これ何か分かりますか?
そう、「アレ」です。
なぜこんなところに「アレ」があるのか?
気になる人は現地に来て横に添えられている案内を読んでみてください。
そこに戦争に対する切実な願いを見るでしょう。
関連タグ >> 神社
ターバンカレー ロースカツカレー 金沢カレー伝説の味を賞味
2020年08月29日
『ターバンカレー』。
古くから金沢カレーを食べ続けてきた人にはちょっと別格の響きです。
人によって異論はあるかと思いますが、金沢カレーを代表するお店と言えば工大前にあるターバンカレーを筆頭とするターバンカレーグループ、そんな時代が確かにありました。
そのターバンカレーがなぜか平成8年、突然『チャンピオンカレー』と名称を変更します。
その一方で『ターバンカレー』のまま営業を続けるお店もありました。
外野の人間には完全に「???」の状況。
この件に関して、わたしは「ターバンカレーは親族のゴタゴタで分裂し、本流は現チャンピオンカレーの方で、ターバンの名前を継いでいるターバンカレーは実は傍流」と聞いていて、長らく本気でそう信じていました。
でもこの記事を書くに当たり改めて調べてみたら、どうも真相は全然違うようで。
詳しくは下記のサイトで語られてますので、知りたい方はそちらを参考にしてください。
https://chancurry.com/history/
結論から言うと、どちらが本流どちらが傍流とかそういう線引きはなく、分裂はあくまでイーブンみたいで。
と言うか分裂は平成8年に突然起こったのではなく、昭和48年には既にたもとを分かっていたそうで。
誰だよ、親族のゴタゴタで傍流に商標持ってかれたとか適当なデマ広めたの??(笑)
そんな様々ないわくを背負った(←?)ターバンカレー。
多分訪問するのは20年以上ぶり。
数あるメニューの中から今回は最もベーシックな”ロースカツカレー”を、大盛りで食べたおします。
ルーは黒味の強い濃茶色。
質感鬼ドロ。
味も見た目そのまんま、ドッロドロのコッテコテ。
重~い重~い、もう鉛を頬張っているような重さ。
スプーンを持つ手が震える!震える!(←そこまで重くない)
味は刺激ビシビシ系ではなく、まろやかもっさり系。
甘みと穏やかなスパイスが程よく絡み合い、厚くブ厚く押し沈む。
ライスがさらにボリューミーで。
ほくほくとした食感が鬼ドロカレーにぐっと重みを加え、ずっしりどすーんと重度を重ねる。
トンカツはサイズそこそこ、厚み中程度。
衣は澄んだキツネ色、ピカピカ照り返す光沢が美しい。
揚げ上がりサクッと香ばしく、噛み砕くたびに軽快な食感が踊る。
中の肉はむっちり。
ぎゅっと締まりがあり、でも柔らかく、そして味でじゅばじゅば。
甘旨い肉の味をどば~としみ出し、熱と密度で口の中をむんむんに埋める。
むっとクる脂の圧力もタマンね~♪
もっさもっさと食べ込んで。
味と量で口の中を一杯に満たして。
喉が詰まるほど飲み込んで。
時々水をぐびっと飲んで口と喉を洗浄して。
さらにもりもり食べ込んで。
完食。
ターバンカレーの”ロースカツカレー”。
さすがのボリューム、さすがの迫力、そしてさすがのパワー。
金沢市民の胃袋を何十年にも渡ってつかみ続けてきた悪魔の味を、今日も思う存分堪能いたしました。
ごちそうさま。
[参考]
・ロースカツカレー(大盛り):900円
関連タグ >> 金沢カレー
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