下開発茶臼山古墳群 古墳観察から分かる身分社会の痕跡
2022年02月09日
「古墳の里」を自称する能美市。
実際古墳がゴロゴロありまして、まさに古墳銀座の様相を呈しています。
どんだけ古墳大好きだったのよここの古代人?とツッコミを入れたくなるくらいの数。
ただあまりに数が多すぎて、整備が追い付いていないのが現状です。
なので見学できるのはほんの一握り。
今回はそんな見学できる古墳群のひとつ、下開発茶臼山古墳群をご紹介します。
場所は能美の山の方の住宅地の中。
市の運営する高齢者支援センターの敷地に隣接するような形であります。
ちょ~っと部外者には入り辛い雰囲気。
でも入場オッケーですので、遠慮なくどうぞ。
駐車場も広いし、どこでも好きな場所に車を停められます。
目指す古墳は建物の左側。
古墳の分布状況はこんな感じ。
案内板のある真正面の丘が西支群、ちょっと離れて西尾根支群。
西支群4基、西尾根支群10基、合計14基の古墳が散在しています。
ただこれとは別に今はなくなってしまった東支群ってのがあってそこに8基、その他にも6基の古墳がありました。
だから本来は28基。
他にもひょっとしたら見付からないまま消えてしまった古墳もあったかもしれません。
いきなりですが、メインの9号墳。
なんやらただの土山に見えますが、ちゃんと古墳です。
最大径17.2メートルって事なので、円墳としては中規模サイズ。
ただ画像でなんとな~く雰囲気は分かると思いますが、現場の地形はかなりあいまいです。
え?ドコからドコまでが9号墳?って感じ。
そんな状況にさらに拍車をかけるのがコレ。
窪んで墳丘の形が損なわれています。
これ、発掘の跡です。
古墳を発掘するって事は、イコール破壊に繋がります。
それは学術研究上ある意味仕方ないんですけど、その後の処理として「ほったらかし」と「埋め戻し」の2通りのパターンがあります。
これは典型的なほったらかしの例ですね。
ちょっとひどい扱い。
とは言え、いいモン出てるんですよ、ココ。
こちらは甲冑。
この近くにある能美ふるさとミュージアムって施設に展示されています。
おお~シビれるね~♪
めちゃめちゃ保存状態いいし。
コレ、三角板革綴短甲(さんかくいたかわとじたんこう)と竪矧板革綴衝角付冑(たてはぎいたかわとじしょうかくつきかぶと)というものすご~いレアな甲冑だそうです。
え?漢字難し過ぎて意味分からん?
そりゃアレですよ、アレ。
わしもワカラン。(←?)
こんなのも出てますゼ。
縦櫛(たてぐし)。
櫛なんで当然頭に差すヤツです。
ファッションアイテムですね。
ただ特異なのはその数。
えっれ~いっぱい出てるのですよ。
その数なんと175枚!
ひとつの古墳から出土した数としては、全国でも2番目の多さだそうです。
よっぽど髪の毛多かったんでしょうね!(※それは違う)
他にもこんなものが出てます。
鏡、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす)、鉄斧(てっぷ)等々。
中でも面白いのが三葉環頭太刀(さんようかんとうたち)の柄頭(つかがしら)。(※左下の鍵みたいなヤツ)
これは7号墳からの出土品なのですが、国産ではなく朝鮮半島からもたらされたものと考えられています。
でもなんでそんな希少品がここにあったのかが不明で、いまだその入手経路が解明されていません。
一体どんな経緯でやってきたんですかね?
話を現場に戻して、こちらは西尾根支群。
なんとな~く分かるでしょうか、丸い盛り上がりがぽこぽこっと連続しているのが?
先に見た分布図の通り、このエリアは10基の古墳がほぼ直線状に並んでいます。
明らかにわざと並べたって感じ。
恐らくですが、ここは臣下レベル用の埋葬場所だったんじゃないですかね?
9号墳のあった西支群がこの地を支配した一族の埋葬地で、臣下の墓はそれを取り巻くように並べられた。
そう考えると全体の位置関係の整合性が取れます。
西尾根支群(左)と西支群(右)の丘を別角度からみるとこんな感じ。
ご覧の通り全然高さが違うのが分かります。
こうして見比べるとやっぱり西支群は上位、西尾根支群は下位クラスの埋葬場所だったと考えるのが妥当でしょう。
上位の人間はこうして死んだ後も下位の人間を見下ろすのです。
ザ・古代ヒエラルキーの痕跡です。
ぱっと見、やや殺風景な下開発茶臼山古墳群。
でも地形や配置をじっくり観察すると、色々な読み取りが楽しめます。
ここを訪れる時は頭をグルグル回転させながら、力いっぱい妄想を膨らませて遊んでください。
時間があれば、すぐ近くの能美ふるさとミュージアムもぜひどうぞ。
現場を見てからそこから出たものを見ると、さらに感慨深いですよ。
石川県埋蔵文化財センター 古代体験ひろば編◆古代住居、住んでみたいですか?
2022年02月07日
石川県内の遺跡から出た様々な出土品が見られる石川県埋蔵文化財センター。
前回は館内の展示品を中心に紹介してきました。
今回は屋外にある古代体験ひろばを見ていきます。
ここでは再現された古代住居の展示が行われています。
建物は全部で3棟。
縄文・弥生・奈良時代の住居が見られます。
まずは縄文時代の住居。
ご存知、縦穴式住居ですね。
茅葺でがっさーっと覆われていて木組みの構造は見えませんが、4本の大柱を軸にして、細い木を円錐状に渡してあります。
内部は50センチほど掘り窪めてあり、12畳程度のスペースがあるそうです。
内部は残念ながら進入禁止。
案内板によると、中央に炉があって、上に登るハシゴもあるみたいです。
正面から見るとこーんな感じ。
分かりますかね?ちょっと歪んでいます。
右から左に向けて傾いてるような感じ。
これ多分、本当に傾いてます。
恐らくこの方向に向かって強い風が吹くのでしょう。
プラス雪の重み。
縦穴式住居の耐用年数は20~30年と言われているのに対し、この建物はもう築20年以上。
そろそろヤバイかもしれないですね。
一度修築した方がいいかも?
続いて弥生時代の住居。
形は先に見た縄文時代の住居と似ていますが、1点、大きく異なる部分があります。
それは屋根材。
先に見た縄文住居が茅葺だったのに対し、こちらは土葺きとなっています。
珍しいですね、土葺き。
土なんか積んじゃったら重くて潰れるんじゃないかと思うんですけどね。
でも実際屋根を土で葺いていたんじゃないか?と思わせる住居跡が、富山の下老子笹川遺跡(しもおいごささがわいせき)で見付かっていて、この住居はそれをモデルにしているそうです。
裏に回ると窓。
入口のほぼ対面に付けられています。
これは通気を確保するためですね。
ある程度空気の通り道を作っておかないと酸欠になっちゃいますからね。
そして上部には煙出し。
これは内部で火を焚いた際に出る煙を逃がすためのものです。
一見原始的な家に見えますが、よーく観察すると理にかなった仕組みがアチラコチラに見られます。
古代人の知恵ですね。
奈良時代の住居。
ここで一気に仕立てがスタイリッシュになります。
壁を木の板で覆い、屋根は茅葺。
今でも田舎の方に行けばまだ見掛けそうな古日本建築様式。
この住居に取り付けられてる扉、メッチャ凝ってんですわ。
見ての通りノミの跡がびっしり。
コツコツ手作業で彫ったんでしょうね、コレ。
すげー職人魂だな(笑)。
一応この建物も、分類としては「縦穴式住居」になるそうです。
内部は30センチほど掘り窪められており、カマドや炉まで再現してあるんだとか。
中に入れんから確認できんけどね。
さらにこれら3棟の再現住宅とは別に、謎の四角い穴がひとつポコッとあります。
ここにもかつては建物があったっぽいです。
当時の様子は知らないので詳しい事は分かりませんが、どうも木組みだけの建物があったようで。
でも多分腐って倒壊したんでしょうね。
今はご覧の通り、穴だけが残されています。
今建ってる3棟も結構ボロいからな。
下手すりゃ10年後には全部こうなってるかもしれない・・。
※その後いただいた情報だと、建物の柱の組み立て体験ができる設備だそうです。
情報提供ありがとうございます。
そんな建物群のすぐそばになんか畑っぽいのがあります。
と言うか畑。
体験農園です。
アワやヒエと言った、昔よく食べられていた作物を栽培しています。
昔の人もこうやって畑を耕したんですかね?
古代の畑はもうちょっと雑かな~って気がせんでもないですが、作業するのは現代人ですからね。
整然とした「今風」な畑になっています。
その向こうに不思議な建物がいきなりぼん!
なぜか傾斜が付けられていて、上に向かって伸びています。
見る人が見れば、あ!と一発で気付く建物。
そう、アレです、アレ。
この建物はアレ。
登り窯~。
傾斜が付いているのは、窯の熱を上に流すため。
下で薪を焚いて、そこから発生した熱と煙を上へと流し、それによって成形した土を焼き上げるのです。
このシステムは古墳時代に朝鮮半島から伝わったと言われており、こうして作られたものは「須恵器(すえき)」と呼ばれます。
それに対して窯を用いずに、野焼きだけで作られたのが「土師器(はじき)」。
よく古墳の説明で「須恵器と土師器が出土した」なんてのを目にしますが、両者にはそんな違いがあります。
さらに面白いものがもうひとつ。
移設古墳です。
これだけ全然違う場所にあるので、見逃さないように注意してください。
向かって左が石室、右が埋葬施設。
古墳丸々の移設ではなく、部分移設になっています。
こちらは石室の方。
小松市の那谷町にあった那谷金比羅山古墳(なたこんぴらやまこふん)のものです。
直径10メートルの円墳で、古墳時代末期である8世紀初頭頃のものと推定されています。
見ての通り横から入れるタイプで、石材は凝灰岩が使われています。
凝灰岩ってのは火山灰が固まって石化したものです。
ものすごーく柔らかいのが特徴。
なので加工に向いているんですね。
古墳の石室の石材によく凝灰岩が用いられているのはそのためです。
古代の建物が見られたり、登り窯が見られたり、古墳が見られたりする、石川県埋蔵文化財センターの古代体験ひろば。
ロストワールドが体感できる楽し~い場所です。
古代気分を生で味わいたいな~って人は、ぜひ一度どうぞ。
なおこのセンターでは体験教室などのイベントも随時開催しています。
多分小さなお子様には胸わくわくのワンダー体験。
興味のある人は公式サイトをチェックしてください。
関連タグ >> 美術館・博物館 石川県埋蔵文化財センター
石川県埋蔵文化財センター 館内編◆石川の歴史を出土品で追う
2022年02月05日
石川の歴史を埋蔵品から考古する、それが石川県埋蔵文化財センターです。
名前からイメージできる通り、数多く県内遺跡の埋蔵品が収蔵されています。
場所は山の中。
モロ山の中。
クマが出ます、マジで。
武器を持参の上お越しください。(←?)
展示室は常設展示室と企画展示室のふたつ。
企画展示室の方はその都度展示内容が変わるのでレポートはナシ、今回は常設展示室の方のみをご紹介します。
部屋は12角形の2階構造になっていて、細かくテーマ分けされた展示が行われています。
真面目に見ていくと結構なボリューム。
ヒマ~な人はじっくりと、時間のない人は興味がある所だけパッパと見てってください。
こちらは平安時代の鉄製品。
ボロボロに錆びてますけど、精緻な加工の跡が確認できます。
残るんですね~、1000年以上経った今でも。
一体どんな人が作って、どんな人が使ってたんですかね?
ピッカピカだった当時はどんな姿をしていたんですかね?
作りたて新品の姿も見てみたいな~。
えれー適当な形をしているこの土器は「製塩土器」と呼ばれるもの。
名前そのまんま、塩を作るための土器です。
これに海水を入れて煮立てまくって水を飛ばし、塩を採ったんだそうです。
製塩なんて平底で面積のある容器でやるイメージがあるんですけどね。
なんでこの形なんですかね?
なんかスゲー効率悪そう。
ちょっとグロいこの丸いヤツ、なんだかお判りでしょうか?
答えは硯。
習字する時、墨を溜めとくアレですね。
イカスわー、このデザインセンス。
3本の足が付いてて鼎状になってんだけど、その足が動物の足になってて、なんともユーモラス。
これ多分、亀の足じゃないかな?
今にものっそり動き出しそう!
こちらは古墳から出土した副葬品。
手前にあるボロボロの棒は剣です。
形がいかにも古代の剣ですね。
まるで西洋の剣のような、反りの入っていない直刀。
当時の剣はこの形ゆえに衝撃に弱く、簡単にポキンと折れたと言われています。
なのでこの剣は戦闘向けの実用品というより、権威を象徴する装飾品としての色合いの方が濃かったのかもしれません。
土器がズラリ。
はっきりとは書いてないけど、多分古墳時代~平安時代くらいのものと思われます。
シロウト目にはちょっと分からんですが、左が「北陸系」右が「東海系」の土器だそうで。
東海と言えば愛知・岐阜・三重・静岡の辺り。
こちらから見れば日本の反対側です。
そんな遠い地域にある形式の土器が出てくるという事は、当時アチラとコチラでなんらかの交流があった事を示唆しています。
参考までにgoogleで調べてみると、金沢駅→名古屋駅は距離で213km、徒歩だと(無休憩で)45時間かかるそうです。
歩いたんですかね、そんな距離?
道路もなかっただろうに、どうやって間違えずに目的地まで行ったんですかね?
こちらは加賀郡牓示札(かがぐんぼうじふだ)と呼ばれるもの(のレプリカ)。
これ何かというと、農民のルールブックです。
農民はアーせー、コーせー、と偉そうな命令がズラズラと書かれています。
例えば朝は3~5時から、夜は7~9時まで田んぼに出て働けとか、田植えは5月31日までに終わらせて報告しろとか、酒を飲むなとか、魚を食うなとか。
なんでそんな事イチイチ指図されにゃならんのよ?みたいな上から目線のルールがぎっしり。
こんなの本当に守られてたのかね?
結構無視されてたんじゃないかな~?
このペラペラの土人形は板状土偶。
縄文時代のものです。
上と下とで色が違うのは別々の所から出てきたため。
別々の所って言ってもせいぜい数メートル程度の距離だと思うんだけど、その「ちょっと」が2000年も経つとここまでコンディションに違いを作るんですね。
下半身だけほんのり赤くなってますが、これはこの像本来の色で、元々は全体がこの色でした。
古墳の壁画なんかでもそうですが、「赤」には魔除けなどの呪術的な意味合いがあり、この土偶にもそんな何らかの呪術的意図が込められていたと考えられています。
石器時代の石器。
石を砕いて加工しただけの、極めて原始的なものです。
一番左の白い石には「頁岩(けつがん)」と書かれたキャプションが付けられています。
頁岩とはドロが何千万年もかけて石になって、そこに圧力がかかって、一定方向にパリッと割れやすくなったものです。
だからすごく加工が楽で、このように石器の材料としてよく使われました。
河原なんかに行けば割と簡単に見付かりますので、興味があったら探してみて下さい。
こちらは室町頃の遺物で、一石呪符(いっせきじゅふ)と呼ばれるもの。
毘沙門天・金剛界大日如来・不動明王・胎蔵界大日如来を意味する梵字が書かれています。
用途はよく分からんですが、携帯型集合仏像、みたいな感じですかね?
あるいは簡易版梵字曼荼羅か。
恐らくは何らかの護符的用途をもって作られたものでしょう。
石は凝灰岩ですね。
石の話はもういい??(笑)
最後に一発、デカいのをバーン!
貝塚の断面です。
これ、模型じゃなくて本物で、三引遺跡(みびきいせき)から出た貝塚の断面を特殊な方法ではぎ取ったものです。
スゲーな。
地層ですよ、地層。
地層を引っぺがして標本化しちゃうんですよ。
ダイナミック過ぎるわ!
石川県内から出た様々な遺物が一同に見られる石川県埋蔵文化財センター。
正直そんなにサンプルは多くないんですけど、時代による偏りがなく、非常にバランスの良い構成になっています。
石川の歴史的営みを発掘品という視点から見てみたいって人には、多分すごく興味深い場所。
考古学スキ~♪って人はぜひ一度訪れてみてください。
次回は野外にある古代体験ひろばを見ていきます。
こちらは発掘調査を元に、古代住居が再現されています。
まるで突然時間を越えて飛び込んだような不思議~な感覚が楽しめる場所ですよ!
関連タグ >> 美術館・博物館 石川県埋蔵文化財センター
金ヶ崎城 ほぼ山登り、でも頂上からの眺めがチョーー爽快!!
2022年02月02日
敦賀湾の端っこに残る地味ぃ~なお城、それが金ヶ崎城です。
このお城が合戦の舞台として歴史に登場するのは3回。
1回目は源平合戦の頃で、平通盛(たいら の みちもり)が木曾義仲(きそ よしなか)との戦いに備えて築きました。
次に登場するのが、新田義貞(にった よしさだ)の籠城戦。
そして最後が歴史上有名な「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる、織田信長が命ギリギリの大撤退をやらかした朝倉攻めです。
ここまで聞くと、お、結構いいお城なんじゃないの?と思われるかもしれませんが、まーそうでもなく。
現在残っているのはほぼ山です。
そもそもの使用目的がその場限りの戦闘要塞ですのでね。
天守閣たら櫓門たら、そんなカッコイイものは一切残っていません。
『山』、です。
まずは全体の俯瞰図から。
構造はご覧の通りシンプル。
とぼとぼと続く細い山道を登ったり下ったりするだけです。
しつこいですが目を見張るような城郭建築の類は一切ありません。
訪問の際にはそれを大前提の上で、お越しください。
入口は金崎宮(かねがさきぐう)の脇、「花換の小道(はなかえのこみち)」と呼ばれる所からスタートします。
いきなり細いですよ、道。
これでもまだ石畳が敷かれているだけましで、この先はさらに土の山道となります。
結構しんどいです。
間違ってもヒールの高い靴なんかで来ないように!
最初に見えてくるのがこちら、鴎ヶ崎(かもめがさき)。
海に向かって突き出した岬の突端にある、少し平らな広場です。
これ見る人が見れば一瞬で分かると思いますが、いわゆる曲輪(くるわ)と呼ばれる場所です。
曲輪とは兵の駐屯地で、戦時にはここに兵を待機させて出撃の準備を整えました。
お城には必ずある施設です。
そこからさらに進むと、道沿いに小さな案内があり、横に細い脇道があります。
その脇道を入った先にあるのがこちら、尊良親王(たかなが しんのう)御陵墓所見込地。
尊良親王とは最初にチラッと名前の出た新田義貞の籠城戦の際に一緒に戦った人物で、落城と共に自害しました。
そのお墓(かもしれないな~)という経塚がこの碑のある場所なのです。
なんで(かもしれないな~)なのかと言うと、尊良親王の正式なお墓は別に京都にあるからです。
なのでここはお墓というよりも、尊良親王が自刃した場所ではないかと考えられています。
そのお墓(かもしれないな~)のすぐ足元に、小さなくぼ地があります。
特に案内は出ていませんが、恐らく曲輪。
攻め登ってきた敵の側面を突くために設けられたものでしょう。
すぐそこで尊良親王が自刃したというなら、ひょっとしたら昔は小屋程度の建物くらいあったかもしれません。
ここからまた細い山道をよっこらよっこら登り、ふーー・・と100回くらいため息をついて、ようやくたどり着くのが月見御殿跡。
本丸です。
本丸とはお城の心臓部で、通常大将はここで戦いの指揮を執ります。
広場としてはここがこのお城で一番広いスペース。
今はゴチャゴチャ立木が生えてますが、昔はもうちょっとさっぱりして見通しが良かったと思われます。
一応「月見御殿跡」なんて名前で呼ばれてますが、まあ御殿なんてなかったでしょうね。
あってもせいぜい一時的に使用する簡易小屋程度。
この手の山城ってのは戦闘時だけの使い捨てが基本なので、豪華な建物、ましてや御殿なんて建てられる事はまずありません。
ここからの眺めが爽快でしてね。
敦賀湾がさーーーっと見渡せるのですよ。
今でこそ足元にコンビナートやらなんやら無粋なものがいっぱい建ってますが、昔はこの真下はそのまま海。
青い大海原と半島の稜線が一面に広がる景色でした。
きっと信長も見たんでしょうね、この眺め。
かつて信長が見たのと同じ景色を今眺めてるんだー、なんて思うと、なんかものすごい感慨に浸れますよ!
もうひとつ、こんな面白いものもあります。
古墳。
言われなきゃまず気付かないですね、この盛り上がりが古墳だなんて。
普通に土の山ですわ。
スペシャル感ゼロ。
ここに古墳があるって驚きより、これが古墳ってよく気付いたなって驚きの方が大きいくらい。
一応石室がちゃんとあって、刀や鏡といった副葬品なんかが出土しているそうです。
その月見御殿跡からさらに進むと、今度はぐいっと下がって三の木戸跡に出ます。
ここはかつては水場で、湧き水が出てたんだとか。
そんな痕跡全然ないんですけどね。
どこから出てたんですかね、湧き水?
謎だ・・・・(悩)。
さらにスタスタ進むとまた曲輪に出ます。
ここは兵糧庫として使われていたそうで、落城で焼けた米が後から出てきたことから焼米石出土跡と呼ばれています。
にょきっとしたカーブ状の平地になっていて、その一角にお堂がチョコン。
ちょーっと分かりにくいですが、お堂の中には数体のお地蔵さんが祀られています。
恐らく戦死者の慰霊を願うものでしょう。
穏やかな表情でひっそりとたたずんでいます。
その先にあるのが二の戸跡。
ここは分岐路になっていて、真っすぐ進むとさらに山奥の天筒山城、右に折れると下山となります。
お城としてはここで終わりなので、ここはそのまま降ります。
で目にするのがこの折れ折れ道。
ここのジグザグの数と傾斜角がハンパないのですわ!
ほとんど嫌がらせ。
これ、なんでこんな面倒臭い事になっているのかというと、防御のためです。
攻める側から見た時のことを考えてみてください。
武器持って重い甲冑付けて登んなきゃいけないんです、この折れ折れ急坂を。
しかも上からジャンジャン攻撃を浴びながら。
まず無理ですな、突破。
どんな体力自慢でも無理、無理、無理です。
そしていよいよゴールです。
スタートした金崎宮の裏手に出ます。
ここに来る頃にはもうへっとへと。
ご丁寧に自販機がありますので、喉乾いた人は1本どうぞ♪
ほぼ山道とデコボコの広場しか残ってないので、ちょっとお城的エッセンスの薄い金ヶ崎城。
しかも体力が必要。
訪問する時はヤル気をしっかり充電して臨んでください。
雨の後とかだと多分ぬかるみますので、前日が雨だったりしたら避けた方が賢明かもしれません。
それと蚊が多いです。
夏場に行くなら防虫対策も忘れずに!
関連タグ >> お城
昇龍 東坡肉ランチ さすが中華系はコスパ抜群だゼ!
2022年01月31日
この日はお休み、特に予定はない。
空模様は雨、これじゃ散歩にも行けない。
しゃーないし一日中家でゴロゴロするかーと思ってたら、あ、本返さな、と思いつく。
そのままふらふら~っと金沢海みらい図書館へ。
時間的にちょうどお昼なので、その前にメシでも食ってくかと飛び込んだお店が昇龍。
台湾料理のお店です。
窓際のカウンターによいしょと座ってメニューを物色。
あるわあるわ、美味そうなモンがうじゃうじゃあるわ。
全部まとめて食いてー!・・・は無理なので、悩みに悩んだ末”東坡肉(トンポーロウ)ランチ”を選択。
店のおねーさんに告げて10分ほどで着膳。
わ~お、見事な肉じゃ~♪(にやり)
そんな感じで今回は昇龍の東坡肉ランチを。
お腹ぱんぱんになるまで食べたおします。
東坡肉。
厚み5ミリほど。
肉質とろっとろで、脂部分は完全にゼリー状。
肉自体の味は意外にあっさりで、豚肉独特のギトギト感はほぼナシ。
一方、タレは味濃ゆ濃ゆ。
塩とオイスターソースがギンギンに効いてて、ねちょ~っと肉に絡む。
ザ・パワーテイスト。
そんなお肉ちゃんをごはんと一緒に。
ごはんはしとしとふわふわ。
中華料理屋にありがちなチャーハン使い回し前提のパラパラ感はゼロ。
なので味わい伸びやか。
ここに濃い濃いタレの豚肉がどすん!
肉がヘビーなのでね、ごはんのみずみずしい食味が生きるのですよ。
お米の水分が重いタレの味を伸びやかに吸い込み、そこに澄んだ甘みをすっと走らせ。
そして豚肉の甘いうま味がとろ~りと乗っかる。
もう悶絶の充実感!
玉子スープ。
液はトロみ強め、とろ~んとろん。
野菜出汁の軽い味がさらりとしみ出す。
中にはふわふわの溶き卵。
ほぼ味はないけど、量が多いのと優しい舌触りがなんとも贅沢。
数粒入ったコーンのザクザク食感が何気にいいアクセントを乗せる。
肉とごはんをガッツガッツ頬張って。
ごはんお替り無料なので遠慮なくお替り1杯いただいて。
残りの副菜+デザートも全部平らげて。
ドリンクバーも無料なので最後にコーヒーも1杯飲んで。
ぶひっ!と大満足のブタ溜息(←?)をついて。
完食。
昇龍の”東坡肉ランチ”。
美味いわ~♪
そしてコスパ高いわ~♪
こんだけ肉食ってコメ食って、このお値段。
わたしみたいなお腹ぼよぼよブタ人間には悪魔に幸せなお店です!
ごちそうさま。
[参考]
・東坡肉ランチ:880円
昇龍
住所:石川県野々市市御経塚 3-512
TEL:076-259-6865
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