
高山右近の碑公園
2018年09月21日

羽咋の田んぼ道をぐるぐる~っと走って。
急旋回すると、目の前にぽつんと突っ立つ銅像。
高山右近の碑です。
高山右近ってのは戦国時代のキリシタン大名。
多分名前くらいは聞いたことあるでしょう。
元々は大阪の方の出身で、主にそちら方面で活躍した人みたいです。
そんな人の銅像がなんでこんな場所で田んぼの真ん中に立ってんの?って事ですが。
そこにはキリスト教迫害の悲しい歴史がありました。
元々彼がキリスト教の洗礼を受けたのは10歳の時。
父親がイエズス会修道士の教えに感銘を受け、一家丸ごと改宗したそうです。
時は戦国。
彼はその優れた才覚と武勇により、船上城を拠点に6万石の領地を有する大名にまで昇りつめました。
しかしここで運命は一気に暗転。
秀吉によって「バテレン追放令」が発令されるのです。
信仰か?大名の地位か?の究極の二択を迫られた彼は、迷わず信仰を選択。
全てを失い、各地を転々と旅する事になりました。
そして最後にたどりついたのがここ、加賀藩だったのです。
前田利家は従来より右近との親交が深く。
なんと1万5千石もの扶持を与えて彼を召抱えます。
当時、1万石で大名ですから、実質的な大名待遇ですね。
当然右近はこの大恩に報いるべく、築城のサポートや軍事・政務における助言など、多方面に渡って精力的に働きました。
しかし悲劇はまだ続きます。
今度は家康が「キリシタン国外追放令」を発令。
さすがの利家ももうかばい切れなくなり、右近はついにこの加賀の地をも追われます。
行き詰った右近は長崎に渡り、なんとフィリピンのマニラへと移住。
しかし向こうの気候が身体に合わなかったのか、到着してわずか40日ほどで病死。
その悲しい生涯を閉じることとなったのです。
と、右近伝説はここまでなのですが。
実はこの話にはまだほんのちょびっと続きがあって。
彼の孫がその後帰国し、ここ羽咋の志賀町に根付いていたらしいのです。
彼の銅像がなんでこんなトコに立ってるの?という理由。
実はそういう経緯があったからなのです。
この記念碑の裏山には右近のお墓もあり。
「高山右近墓所」と刻まれた、小さな石作りの十字架がひっそりと立っています。
足元が悪く、結構そこまで登るのは大変なのですが。
お墓にはいつもきれいな花が備えられていて、どうも頻繁に人の往来があるようです。
彼の仁徳でしょうね。
戦国の世に翻弄され、悲劇的な人生を送った右近。
強い意志で信仰を守り続けた彼は果たして幸せだったのか?
それは本人にしか分かりません。
でもきっと天国では祝福を受け。
今もずっと神に殉じていると。
そう信じたいですね。
高山右近の碑公園
住所:石川県羽咋郡志賀町末吉 末吉ハ3
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