
武家屋敷跡 野村家(謁見の間~上段の間) なんでこ~なるのか分からん??
2020年03月28日

長町武家屋敷界隈のほぼ中心にある野村家邸宅。
江戸期の中級武士の暮らしぶりを建物から体感できる、貴重な遺構です。
前々回はエントランス、前回は控えの間と奥の間を見てきました。
今回はいよいよこの屋敷のメインとも言える謁見の間と上段の間のお話です。

屋敷に入り控えの間を通され、次に案内されるのが謁見の間。
殿さまとご対面できるスペースです。
でもちょっと考えてください。
ここは中級武士であった野村家の屋敷。
そこに殿さま謁見用の部屋があるって変じゃないですか?
実はこの建物、野村家オリジナルのものではないのです。
元々は加賀藩の支藩である大聖寺藩にあったもので、そこの藩主謁見用に作られたものなのです。
それが明治になってここに移築されてきたのです。
ここにこんな部屋があるのは、そういう経緯によります。
ただこれ以上の情報が詳細不明で。
この謁見の間と上段の間だけを切り取って移築したのか、この屋敷自体丸々移築されてるのか、その辺りがはっきりしません。
わたしは謁見・上段は後からドッキングしたものじゃないかと思ってるのですが。
謎、謎、謎です。

話戻して、謁見の間。
天井はご覧の通りの質素な棹縁天井。
一方で上段の間は折り上げ格天井になっており、両者の格付けに明確な差を設けています。
上段の間側の壁沿い上には大振りの御簾がだらり。
金糸で優雅に装飾し、白・紅・茶の三色で彩られた豪奢な房を垂らしています。
ちょっと寝殿造り的なもったいぶった装飾。

そしてその先がいよいよメインの上段の間。
「上段」と称するだけあって、この部屋自体、床面が1段高くなっています。
謁見の間方向から見て左手には床の間。
中央に白木の丸柱を通して、右に本床、左に床脇のいわゆる逆勝手(ぎゃくがって)構造を取っています。
床面は畳床にしつらえ、前田家13代目斉泰(なりやす)・14代目慶寧(よしやす)公の書が掛けられてます。

床脇の天袋の装飾を見てください。
扉が金地。
前回の記事で紹介した奥の間と同じ装飾が施されています。
これ、明らかに変ですよね。
屋敷の主の部屋である奥の間と、藩主のために用意されている上段の間で、使用されている装飾が同レベル。
これはちょっとありえないと思うのですよ。
やっぱり奥の間にしつらえられている様々な装飾、あれって明治期以降に作り替えられたものじゃないですかね?

もうひとつ注目して欲しいのが壁の色。
この部屋だけべんがら色になっています。
ここ以外はすべて茶色の土壁。
だから余計に映えるんですよね、紅が。
ぱーっと差すような色。
ここだけ別空間的な空気がむんむん立ち上って来ます。
ところでここまでで妙な違和感を感じませんか?
ちょっと画像じゃ伝わりにくいと思いますが、現場に立つとよりハッキリと感じられます。
その違和感とは部屋の構成。

平面図で見るとこんな格好になっています。
謁見の間を正面に据え、上段の間奥が濡れ縁、その先が庭園。
床の間は左側にあるので、当然謁見の間からは見えません。
普通は床の間を客から見える正面奥に置き、庭園は左または右側にくるはずなのです。
この理由についてはふたつ考えられます。
1. 床の間よりも庭の眺めを重視し、わざとこの形にした。
2. 上段の間と謁見の間を移築した際、スペースの制約上元と違う配置にせざるを得ず、結果としてこんなおかしな形になった。
これらのどちらかと思うのですが、どっちですかね?

ちなみに一番スマートな構成はこんな形です。
謁見の間を持つ屋敷は、大体どこもこんな配置になっています。
金沢で言えば成巽閣(せいそんかく)の謁見の間がモロにこの形。
下段の間から見て上段の間の奥が床の間、左に付け書院、右に武者隠(むしゃかくし)。
この構成が頭にしみ付いてると、ここの上段の間と謁見の間のいびつな構成、どーも落ち着かんのですわ。
なんでこうなったのか?
うーん・・不可解・・・(悩)。

難問奇問の野村家上段の間・謁見の間。
訪問の際にはその謎、じーーっくり考えながらご鑑賞ください。
次回は謁見の間の隣にある佛間、ちょっと離れになっている鬼川文庫を見て行きます。
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