店主たみこの観光案内日記

富山城跡 水堀~西の丸 石垣の詳細がよー分からん、謎多きお城

2025年03月22日

富山城跡 本丸

 

富山市内の中心部に城址公園として解放されている富山城跡。
富山駅から歩いて15分程の所にあります。

 

現場はまさに公園。
お城感は薄く、かろうじて残る石垣と水堀が当時の名残りを留めています。
城跡見学というよりも散歩やくつろぎに来る所、そんな場所です。

 

富山城跡の全体図

 

公園の全体図はこんな感じ。

 

正面に大きな水堀、その先に富山市郷土博物館
園内に入ると左手に芝生広場、右手に日本庭園。
庭園のさらに右手に千歳御門、奥に行くと佐藤記念美術館。
そんなに密度は高くないので、ただブラブラ歩くだけなら15分程度で見回れる広さです。

 

正面水堀

 

水堀どーん!

 

サイズが圧巻だわな。
もうこれだけで攻め気をなくすデカさ。
今は正面だけですが、往時はこのサイズの水のバリケードが本丸をぐるりと取り囲んでいたそうで。
しかもその先には高石垣。
鉄壁の防御網です。

 

左右で違う石垣

 

で、ここでちょっと石垣の造りに注目して欲しいのですわ。
左右で石の積み方が違うの、分かります?
左は荒く加工した石の乱積み、右は綺麗に成形された石の落とし積み。
明らかに仕様が違う。
なぜ?

 

これについてはっきりとしたソースがないので、あくまでわたしの予想なのですが。
左は江戸期に積まれたもの、右は現代、恐らく昭和に積まれたものなのではないかと。
多分だけどね。
もし詳細を知ってる方、いらっしゃいましたら教えてください。

 

富山城跡の鏡石

 

そのままツタツタッと入って行くと、次に待つのが二重のクランク。


ここでも石垣に注目して欲しい。
ガツガツ並ぶ鏡石!鏡石!鏡石!
その数実に5枚!

 

1枚2メートル以上あるのよ。
それが5枚!
石垣マニア(※変態レベル)にはもーヨダレだらだらの眺めです♪

 

仕様の違う石垣

 

しつこいけどさらに石垣。
ここの石垣、2種類の積み方がされています。
画像手前が横目地を綺麗に揃えた布積み、奥はガタガタの乱積み。

 

これなんか意味あんのかな?
考えられるとすれば築造時期の違いで、まず奥を作って、後に手前側を追造ドッキングさせたってケースだけど。
実際どうなんだろ?
謎じゃ。

 

富山市郷土博物館

 

そしていよいよ公園内。
まず目につくのがこちら、この公園の象徴とも言える天守閣!

 

なのですが、この建物「ナンチャッテ」です。
史実として富山城に天守閣は存在せず、これは昭和29年に建てられた模擬天守で、中は博物館になっています。
詳細については次々回

 

富山市郷土博物館の石垣

 

ついでなんでさらにしつこく石垣を追及。

 

この天守閣の土台となっている石垣、よーく見ると隙間にコンクリが見えてます。
つまり近代に積まれたもの。
恐らく天守閣建造時に積まれたものと思われます。
ただこれが元々あったものの補強積み直しなのか、それとも新築なのかは不明。

 

結構謎が多いんだよな、富山城の石垣。

 

芝生広場

 

天守閣西側は一面の芝生広場。
気持のいいグリーンがざっと広がっています。
いかにも公園な景色。

 

このエリア、元々は水堀を隔てて本丸と並列する西の丸と呼ばれる曲輪でした。
ポジション的にはサブの本丸みたいな位置づけですかね?
今じゃ面影もありませんが、360度を水堀で封鎖した強力な守備陣地となっていました。

 

富山城跡の正面口

 

今回はここまで。
次回は日本庭園とその周辺を見ていきます。

 

先にネタバレしとくと、この先もかなりいじりまくられてて、在城時の面影はほとんど残っていません。
でもまあそこは開き直って。
城跡の「今の姿」、お楽しみください。

 

 

富山城

住所:富山県富山市本丸 1-1

ホームページ:観光とやまねっと公式サイト

 

 

関連タグ >> お城 公園 富山城 

 


羽咋市歴史民俗資料館 渚の正倉院 氣多大神宮展 今しか見られない貴重なお宝がいっぱい

2025年03月15日

羽咋市歴史民俗資料館 渚の正倉院 氣多大神宮展

 

過日、羽咋市歴史民俗資料館にて開催されていた“渚の正倉院 氣多大神宮展”。
12月からやってて、すごく興味があったので行く気マンマンだったのですが、色々忙しくてなかなか都合がつかず。
会期ギリギリになってよーやく訪問してきました。

 

いいよね~、歴史のある神社の神宝展。
気多大社は展示館持ってないからね。
普段見られないお宝が見られる、貴重~な機会です。

 

気多大神宮寺木簡

 

では早速ズラズラっと見てきましょう!
一発目は気多大神宮寺木簡。
延暦2年(783年・奈良時代)のものです。

 

神宮寺とは神社に付属するお寺。
奈良時代、既に気多大社に神宮寺があった事を示す査証となっています。
涅槃浄土への往生を願って紙布米を奉納したと書かれており、当時の宗教観が伺える貴重な資料です。

 

氣多大神宮展 銅鏡

 

銅鏡。
奈良~平安時代頃のものです。
祭祀具として使われていたと考えられていて、神獣や葡萄の装飾が施されています。

 

画像からなんとな~くニュアンス伝わると思うけど、ちっちゃいのよコレが。
一番大きなものでも直径5センチほどかな?
もっと間近で見たいんだけど、残念ながらブツはガラスケースの向こう。
んーーーー遠い!

 

寺家遺跡の三彩陶器片

 

三彩陶器片。
これも奈良~平安時代頃のもの。
陶器に白土と緑色・黄色の釉薬をかけて再焼成してあります。
なんでもこっちでは作れないそうで、中央から取り寄せたプレミアム品なんだとか。

 

ただご覧の通り、展示されてるのは欠片の寄せ集め。
これじゃど~にもイメージが湧かない。
そこでと言う事で、完全体の写真が背面に飾られています。

 

三彩陶器の完全体

 

それがこちら。
壊れてなければ大体こんなようなものだったみたいで。

 

しかしながらこのサンプル、気多大社とは直接関係ありません。
1000kmも離れた福岡県の宗像大社の沖ノ島祭祀遺跡から出てきた品。
なんでそんな離れた所同士で同じようなものが出てくるのかと言うと、元々は中央(大和地方)で作られて下賜されたものだから。
つまりこの時代、もう全国的な交易が始まっていたって事なんですね。

 

勾玉

 

勾玉。
やはり奈良~平安時代頃のもの。
出雲大社から出てきたものと酷似していることから、出雲からもたらされたものではないかと考えられています。

 

出雲も遠いよ。
島根県だからね。
距離にして600km、とても歩いて行けるような距離じゃない。
多分船を使って移動したんだろうな。

 

帯金具・皇朝銭・刀装具

 

上は帯金具、下左は皇朝銭、右は刀装具。

 

古銭に魅かれるね。
なんでも奈良・平安時代には12種類の銭貨が鋳造されたそうで、ここにあるのはその内の6種。
通貨と言うよりも、祭祀具として使われてたんだとか。

 

貨幣経済が回り始めるのは室町時代くらいからだからね。
この頃はまだまだ秘蔵コレクション的なアイテムだったんだろうね。

 

気多社祭儀禄

 

気多社祭儀禄。
享禄4年(1531年・戦国時代)のもの。
気多大社の年中祭祀の記録が網羅されています。
これによると、500年も前から今と同じ形式で祭祀が続けられていた事になるんだとか。

 

すごいね。
500年だよ。
そんな古くからずっと同じ営みが続けられてきたんだからね。
無形文化の化石ですわ。

 

前田利家書状

 

前田利家書状。
気多大社からの贈答品に対する礼と、鵜祭の神事をしっかり執り行うようにとの命が書かれています。
利家との強い結びつきを示す文書です。

 

気多大社の歴史は、その時代時代のパトロンとの付き合いの歴史。
いかに由緒正しい大神社と言えど、権力者の庇護なしには生きていけませんからね。
今も昔も、世渡りは大事な処世術なのです。

 

某消息

 

某消息(なにがししょうそく)。
利家の正室まつが、小田原合戦に向かう利家と息子利長の無事と戦勝を祈って気多大社に当てた書状です。
ただまつ本人の筆ではなく、だから「某」。

 

人間臭いね。
全国屈指の大名と言えど、戦場に行けば生死は時の運。
あとは神に祈るのみ。
そんな緊迫感が伺える書状です。

 

気多社古縁起

 

最後に、気多社古縁起。
気多大社の由来が記されており、出雲の祭神大己貴(オオナムチ)が300余りの神々を引き連れてやってきて、人々を苦しめる化け鳥や大蛇を倒してこの地に鎮座した、みたいな事が書かれています。
ロマンいっぱいのファンタジーストーリー。

 

で、実際どうだったんですかね?
本当に出雲にルーツがあるのか、単なる後付け話なのか?
なかなか興味深い資料です。

 

渚の正倉院 氣多大神宮展の入口

 

貴重な気多大社の神宝が見られる渚の正倉院 氣多大神宮展。

 

面白いね。
これだけのものが一度に見られるのはなかなかない機会。
貴重~な体験をさせてもらいました。

 

できれば第2段、3段もやって欲しいな。
まだまだあるんでしょ、お宝?
今回未出品の超レアな奉納品なんかもあるはず。
眠ってるお宝、もっともっといっぱい見せてくれーーー!!!

 

 

羽咋市歴史民俗資料館

住所:石川県羽咋市鶴多町鶴多田 38-1

TEL:0767-22-5998

ホームページ:羽咋市歴史民俗資料館公式サイト

 

 

関連タグ >> 美術館・博物館 羽咋市歴史民俗資料館 気多大社 

 


香満居 豚トロ黒胡椒炒め定食+担々麺 ボリュームも美味さも文句ナシの街中華

2025年03月08日

香満居 豚トロ黒胡椒炒め定食 担々麺

 

揺れますね。
よく揺れますね。
ぶるぶるに揺れますね。

 

おなか。

 

なんでこーなっちゃったかなー?
腹筋とかしてんだけどなー。
むにっとつかめちゃうしなー。
ぶるっぶるだしなー。

 

でも。

 

メシの量は減らしません!(キッパリ)



毎日ハラいっぱい食いながらハラが引っ込む事を夢見ながら、香満居(こうまんい)へ。
オーダーは“豚トロ黒胡椒炒め定食”に“担々麺”も付けて。
ぶるぶるにハラを揺らしながら、食べたおします。

 

豚トロ黒胡椒炒め

 

豚トロ黒胡椒炒め。

 

豚肉は誰かのお腹みたいに、ぶるんぶるん。
濃厚なオイルをどろんとしみ出し、分厚いうま味をぎっとり落とす。


野菜は玉ネギ、カラーピーマン、タケノコ、キクラゲ。
量が多いので豪快感強烈!
ザクザク食感と爽やかな甘み・辛みがシビれるほどにフレッシュ。

 

豚トロ黒胡椒炒め ごはん

 

そんな豚肉炒めをごはんと一緒に。

 

ごはんは真っ白ピカピカ。
すわっと湧き出す甘みが爽快。

 

ここに乗っかる豚肉&炒め野菜。
べっとりオイリーな豚肉とみずみずしいごはんとの相性が抜群で、溶け合う味がボリューミー。
さらにザクザク踊る炒め野菜、うま味あふれる甘辛いタレ。
次から次へを押し寄せる幾重もの美味さに、口の中は幸せのヨダレでデロデロ♪

 

香満居 担々麺

 

担々麺。

 

スープは完濁の薄茶色、液面にはオレンジのラー油がゆ~ったり。
味わいピリ辛、ハーブの香りがツーン。
ほのかに後引くゴマの甘みが優しい。


麺は縮れの入った太麺、茹で加減チョイやわ。
舌触りピチピチ、味わいスマート。
みずみずしい小麦の味がピリ辛スープときれいに溶け合う。



完食。



香満居の“豚トロ黒胡椒炒め定食”と“担々麺”。

 

美味いな。
抜群に美味いわ。
特に豚肉炒めのタレが鬼美味くてね。
あのタレだけで白ごはんバクバク食える美味さ。

 

あの味どうやって作んのかな~?
家で再現して~!



ごちそうさま。





 

[参考]
・豚トロ黒胡椒炒め定食:1,050円
・担々麺:250円(セット価格)

 


 

 

香満居

住所:石川県金沢市南新保町ハ 45-1

TEL:076-299-5662

 

 

 


一乗谷朝倉氏遺跡 中の御殿跡・諏訪館跡庭園 こんなカッコエエ庭に憧れるわ~

2025年03月01日

一乗谷朝倉氏遺跡の諏訪館跡庭園

 

450年前に織田信長によって滅ぼされた、越前朝倉氏。
全てを焼き払われた町は、以来ずっと土の下に眠っていました。
その本格的な発掘調査が始まったのは、わずか50年ほど前。
278haにも及ぶ広大な遺跡の全貌はいまだ明らかになっておらず、発掘は現在も進められています。

 

そんな一乗谷朝倉氏遺跡の様子をここまで4回に渡って紹介してきました。
今回はいよいよ最終回、中の御殿跡と諏訪館跡庭園を見ていきます。

 

一乗谷朝倉氏遺跡の中の御殿跡と諏訪館跡庭園の配置

 

位置関係はこんな感じ。
朝倉館跡の南側、前回見た湯殿跡庭園の先に中の御殿跡、さらに行った先に諏訪館跡庭園。
両地とも斜面を切り取って削平してあり、しかもそこそこの広さ。
明らかに上級屋敷があったな、的な雰囲気がむんむんに漂っています。

 

中の御殿跡

 

まずは中の御殿跡。

 

広場。
なんもない、普通ぅ~の広場。
でも大きな屋敷の跡が確認されていて、かつてここに朝倉家当主の妻子などが生活していたと考えられています。
つまり場としてはかなり重要度の高い場所で、その名残りは今もあちこちに残されています。

 

中の御殿跡のへりにある土塁

 

例えばこの土塁。
明らかに防御を意識した土壁。
「ここは絶対に守るんだ」という強い意識がはっきりと感じ取れます。

 

恐らく塀も建ってたでしょうね。
土塁+塀と言えば、お城に用いられる典型的なバリケード構造。
つまりこの広場はお城レベルの防御網で守られていた訳です。

 

湯殿跡庭園との間の空堀

 

この堀なんかも強烈!
深い溝を刻むことで、隣の広場(湯殿跡庭園)との接続をバッサリ切り落としています。
敵を侵入させないための防衛ラインですね。

 

ここは多分、元々は細い沢だったんでしょうね。
そこをザクザク掘って、出た土を中の御殿跡や湯殿跡庭園の整地に流用し、溝と平地を同時に造成。
きっとものすごい土木工事だったんだろうな。

 

諏訪館跡庭園の全景

 

続いて諏訪館跡庭園。
中の御殿跡を少し南に行った先にあります。

 

ここも平地の一角に庭跡がチョコっとある感じ、なんですが、ちょっと別格。
縦横の強調の強さと、背後の斜面の使い方の上手さが光る傑作。
あくまで庭「跡」なので枯れてる感があるのは否めませんが、それを差し引いてもぐいぐい引き込まれるものがあります。

 

中央の巨大な立石

 

まずセンターを飾るこの立石。
何トンくらいあんのかね?とにかくデカい。
大人の身長を余裕で越える高さです。

 

そして合わせて注目して欲しいのが、足元にある左右の石。
何気に三尊石構成になってますね。
こうする事で全体のバランスが良くなり、中央の立石の存在がより引き立つのです。

 

立石の脇の階段

 

脇には池へと降りる階段。
ここをトコトコ降りると、ちょうど立石の下に出られます。

 

これは恐らく対岸からの眺めを意識したものでしょう。
階段を降りて立石の前に立ってハイポーズ、みたいな。
今で言えば「インスタ映え」するポジションって感じですかね。
もっとも当時はカメラなんてないから、ただ向こう岸から眺めるだけになりますが。

 

諏訪館跡庭園の給水口

 

給水口。
山から引いた水をここから池に流し込んでいました。

 

この給水路、よーく見ると小さな滝がいくつか設けられています。
これ、意図的に仕組まれたもので、水の流れに変化を付けています。
「流れる」「落ちる」「留まる」、つまり水の三態をこの滝で表現しているのです。
分かる人にだけ分かる、ニクイ仕掛けです。

 

池に架けられた石橋

 

石橋なんかもあります。
水庭のオキマリ。

 

風流だわな。
わたしも池のある庭、欲しいな~。
マイ池をの~んびり愛でる生活、そんな優雅な人生送りたい。

 

貧乏人には無理だけど。

 

一乗谷朝倉氏遺跡の案内板

 

一乗谷朝倉氏遺跡の中の御殿跡と諏訪館跡庭園。

 

まーいい場所です。
ここで朝倉氏がどんな生活を送っていたのか?どうぞ想像力をパンパンに膨らませてお楽しみください。



以上で、5回に渡ってお届けした一乗谷朝倉氏遺跡のレポートは終わり。
ぐちゃぐちゃと細かく見てきましたが、でも現場にはまだまだ紹介し切れなかった面白ポイントがいっぱい残ってます。
ここから先は自分の足と目でお確かめください。

 

戦国遺跡!万歳!

 

 

一乗谷朝倉氏遺跡

住所:福井県福井市城戸ノ内町

ホームページ:福井市文化遺産ホームページ

 

 

関連タグ >> 遺跡 一乗谷朝倉氏遺跡 

 


一乗谷朝倉氏遺跡 南陽寺跡庭園・湯殿跡庭園 ちょっともったいないなココは

2025年02月22日

一乗谷朝倉氏遺跡の南陽寺跡

 

一乗谷朝倉氏遺跡に残る4つの庭園。
朝倉館跡庭園、南陽寺跡庭園、湯殿跡庭園、諏訪館跡庭園。
そのいずれもが国の特別名勝に指定されています。

 

前回はその内の朝倉館跡庭園を見てきました。
今回は南陽寺跡庭園と湯殿跡庭園を見ていきます。

 

一乗谷朝倉氏遺跡の南陽寺跡庭園と湯殿跡庭園の配置

 

それぞれの位置関係は上図の通り。


南陽寺跡庭園は朝倉館跡の北、空堀の外側。
歩いて10分くらい。
途中、山登りになるのでちょっとキツイです。

 

湯殿跡庭園は朝倉館跡のすぐ南側。
歩いて1分で行けます。

 

南陽寺跡の全景

 

まずは南陽寺跡庭園から。
入口は朝倉館跡庭園の脇にある石段を登って頂上で左折した先にあります。

 

現場は見ての通りの一面の平地。
自然にこんな平地ができる訳ないから、人力でせっせとならしたんでしょうね。
面積は結構あり、サッカーくらいは楽にできます。

 

南陽寺跡庭園

 

その一角にあるのがこの石組み。
これが庭園です。
と言うか、これだけ。

 

正直に言います。
え?
このチョロっとある石の残骸が兼六園や後楽園と同格扱いの国の特別名勝?
マジで??
というのが正直な感想。
そのくらい貧祖。

 

南陽寺跡の建物跡

 

「南陽寺跡庭園」の名前から分かる通り、ここは元々お寺でした。
なんでも尼寺の禅宗寺院があったんだそうで。

 

禅宗と言えば枯山水庭園。
ここにある石組も枯山水・・・と言いたいですが、遺構を見る限り水が張られていたような雰囲気。
水源は不明ですが、多分山から引っ張って来ていたのでしょう。

 

謎の石組み配置

 

石の表す意味は謎。
お寺の庭なんだから仏教世界の表現、と考えるのが自然ですが、イマイチ読み解けない。
最初、一番背の高い石が須弥山(しゅみせん・仏の住む山)かと思いましたが、それなら東西南北に4つの島を表す石を配置するはず。
でもそれっぽいのが見当たらない、と言うか、石の配置も数もグチャグチャ。
何を表現しているのかさっぱり分からない。

 

単に見た目かねえ?
こんな感じで置いたらカッコイイんでねえの?みたいな。
特に深読みする必要はないのかもしれない。

 

一乗谷朝倉氏遺跡の湯殿跡庭園

 

そこから朝倉館跡に戻って南側に下った先にあるのが湯殿跡庭園。
ここも何もない広場の片隅に石組みがゴチャゴチャあるだけです。

 

本来は建物もあったんでしょうね。
恐らく平屋の小振りな建物があり、そこから庭を眺めて楽しむといった趣向になっていたのでしょう。
茶会なんかの用途に使われていたのかもしれません。

 

湯殿跡庭園の石組み

 

こちらは先に見た南陽寺跡庭園より規模が大きくて豪壮。
力感と量感にあふれた、ダイナミックな構成となっています。

 

注目して欲しいのは石の使い方。
大振りな石をガンガン立ててあります。
これによって空間に垂直性が生まれ、より動的な空気が作られるのです。
庭石の妙です。

 

橋の跡

 

この部分なんかも面白いですね。
中央の石が島になっていて、明らかに橋が架けられていた痕跡が残っています。
この橋を渡って、池の上を歩いて遊んだのでしょう。

 

趣味人だったのかね、朝倉氏?
京都から積極的に先進の文化や上流貴族を招き入れるような人でしたからね。
ひょっとしたら庭の造りにも一方ならぬこだわりがあったのかもしれません。

 

雑然とした湯殿跡庭園

 

ただそれだけに残念なんだな~、この荒れ具合。
ここはぜひきちんと整備して欲しいね。
庭師を呼んで、当時の姿を考証して、水を入れて植栽を配置して。
庭園としての体裁をきれいに整えて欲しい。
多分びっくりするくらい見違えるはず。

 

茶店なんかもあってもいいな。
遺跡を守るのも大事だけど、現代に合わせた形で生かすのも大事。
みずみずしく生き返った戦国大名の庭を愛でながらお茶なんか飲んだら、きっと楽しいと思うんだけどな。

 

案内板

 

一乗谷朝倉氏遺跡の南陽寺跡庭園と湯殿跡庭園。
南陽寺跡庭園の方はやや残念感強めですが、湯殿跡庭園はポテンシャル抜群。
往時の朝倉氏の勢いを生々しく感じることができます。
ここに一体どんな景色が展開されていたのか?どうぞ想像力全開でご覧ください。

 

次回は残る最後の庭園、諏訪館跡庭園とその手前にある中の御殿跡を見ていきます。
こちらの庭園も見応え満点。
庭好きにはタマランですよ!

 

 

一乗谷朝倉氏遺跡

住所:福井県福井市城戸ノ内町

ホームページ:福井市文化遺産ホームページ

 

 

関連タグ >> 遺跡 一乗谷朝倉氏遺跡 

 


 


 

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