
一乗谷朝倉氏遺跡 中の御殿跡・諏訪館跡庭園 こんなカッコエエ庭に憧れるわ~
2025年03月01日

450年前に織田信長によって滅ぼされた、越前朝倉氏。
全てを焼き払われた町は、以来ずっと土の下に眠っていました。
その本格的な発掘調査が始まったのは、わずか50年ほど前。
278haにも及ぶ広大な遺跡の全貌はいまだ明らかになっておらず、発掘は現在も進められています。
そんな一乗谷朝倉氏遺跡の様子をここまで4回に渡って紹介してきました。
今回はいよいよ最終回、中の御殿跡と諏訪館跡庭園を見ていきます。

位置関係はこんな感じ。
朝倉館跡の南側、前回見た湯殿跡庭園の先に中の御殿跡、さらに行った先に諏訪館跡庭園。
両地とも斜面を切り取って削平してあり、しかもそこそこの広さ。
明らかに上級屋敷があったな、的な雰囲気がむんむんに漂っています。

まずは中の御殿跡。
広場。
なんもない、普通ぅ~の広場。
でも大きな屋敷の跡が確認されていて、かつてここに朝倉家当主の妻子などが生活していたと考えられています。
つまり場としてはかなり重要度の高い場所で、その名残りは今もあちこちに残されています。

例えばこの土塁。
明らかに防御を意識した土壁。
「ここは絶対に守るんだ」という強い意識がはっきりと感じ取れます。
恐らく塀も建ってたでしょうね。
土塁+塀と言えば、お城に用いられる典型的なバリケード構造。
つまりこの広場はお城レベルの防御網で守られていた訳です。

この堀なんかも強烈!
深い溝を刻むことで、隣の広場(湯殿跡庭園)との接続をバッサリ切り落としています。
敵を侵入させないための防衛ラインですね。
ここは多分、元々は細い沢だったんでしょうね。
そこをザクザク掘って、出た土を中の御殿跡や湯殿跡庭園の整地に流用し、溝と平地を同時に造成。
きっとものすごい土木工事だったんだろうな。

続いて諏訪館跡庭園。
中の御殿跡を少し南に行った先にあります。
ここも平地の一角に庭跡がチョコっとある感じ、なんですが、ちょっと別格。
縦横の強調の強さと、背後の斜面の使い方の上手さが光る傑作。
あくまで庭「跡」なので枯れてる感があるのは否めませんが、それを差し引いてもぐいぐい引き込まれるものがあります。

まずセンターを飾るこの立石。
何トンくらいあんのかね?とにかくデカい。
大人の身長を余裕で越える高さです。
そして合わせて注目して欲しいのが、足元にある左右の石。
何気に三尊石構成になってますね。
こうする事で全体のバランスが良くなり、中央の立石の存在がより引き立つのです。

脇には池へと降りる階段。
ここをトコトコ降りると、ちょうど立石の下に出られます。
これは恐らく対岸からの眺めを意識したものでしょう。
階段を降りて立石の前に立ってハイポーズ、みたいな。
今で言えば「インスタ映え」するポジションって感じですかね。
もっとも当時はカメラなんてないから、ただ向こう岸から眺めるだけになりますが。

給水口。
山から引いた水をここから池に流し込んでいました。
この給水路、よーく見ると小さな滝がいくつか設けられています。
これ、意図的に仕組まれたもので、水の流れに変化を付けています。
「流れる」「落ちる」「留まる」、つまり水の三態をこの滝で表現しているのです。
分かる人にだけ分かる、ニクイ仕掛けです。

石橋なんかもあります。
水庭のオキマリ。
風流だわな。
わたしも池のある庭、欲しいな~。
マイ池をの~んびり愛でる生活、そんな優雅な人生送りたい。
貧乏人には無理だけど。

一乗谷朝倉氏遺跡の中の御殿跡と諏訪館跡庭園。
まーいい場所です。
ここで朝倉氏がどんな生活を送っていたのか?どうぞ想像力をパンパンに膨らませてお楽しみください。
以上で、5回に渡ってお届けした一乗谷朝倉氏遺跡のレポートは終わり。
ぐちゃぐちゃと細かく見てきましたが、でも現場にはまだまだ紹介し切れなかった面白ポイントがいっぱい残ってます。
ここから先は自分の足と目でお確かめください。
戦国遺跡!万歳!
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