
上荒屋史跡公園 住居の痕跡から古代の生活の様子を見る
2020年10月10日

閑静な住宅地の中にある、一見どこにでもありそうな公園。
でもここ、地面の下に重要な遺跡が眠っています。
それは奈良時代から平安時代前期にかけての荘園跡。
昔学校で習ったと思いますが、荘園とは貴族とか豪族とかの領地です。
つまりこの辺一帯は、古代の有力者の私有地だったのです。
その建物や運河の跡が、ここから見付かったのです。

最初に公園の全体図を見ていきます。
大きな見所は3つ、「綾庄」「東荘」「運河」。
綾庄は建物跡、東荘は復元建物、運河は形状復元です。
中央は芝生広場になっており、この日は親子がサッカーの練習をしていました。
熱血指導のとーちゃんと全然言う事きかんマイペース息子との凸凹ぶりが見ててオモロくて・・・まあそこは別にどうでもいいけど。
ではひとつずつ見ていきます。

こちらは綾庄。
現場は保全のためコンクリートでガッチリカバーされています。
所々に打たれている丸や四角は柱の跡の目印です。
当時の建物は「掘っ立て柱建物」と言って、柱を直接地面に打ち込む構造でした。
これは建てる時は手っ取り早くて楽なんですが、柱の腐りが早く、耐久性に欠けます。
その欠点を克服するために考えられたのが、礎石を地面に置いてその上に柱を乗せる「礎石建て」です。
なので建物の遺跡が見付かったという時には、ちょっとその辺を注意してみてください。
「掘っ立て柱を打ち込んだ痕跡が見付かった」のか、「礎石が並んでいるのが見付かった」のか、このどちらかのはずです。

確認された柱跡から推定すると、建物は全部で4棟。
ほぼ同じ規模の建物が縦2列・横2列で並んでいました。(※分かりやすいように色を付た部分がソレです)
サイズは約7.4×10.5メートル。
入口がどこにあったのかは分かりませんが、多分辺の長い方じゃないですかね?
用途も謎。
倉庫だったのか?住居だったのか?
そこは色々イメージして遊んでみてください。

こちらは運河の跡。
復元は途中で切れてますが、当時は多分もっと先まで続いていたと思われます。
根元はこのすぐ近くにある安原川。
恐らく大量の人夫を動員した、異例の大規模工事を敢行して繋げたのでしょう。
相当の権力者じゃないとできませんね。

発掘調査から運河は深さ2メートル・幅は8メートルほどの規模であったと推定されています。
利用目的は水運。
つまりここを拠点に物資を搬入・集積・搬出していた訳ですね。
その事を示す船着き場跡も確認されているそうです。
地図で見るとここから海まではそれほど遠くなく、船を使って安原川を下ればすぐに日本海に出られます。
なので海を経由し、遠方までの輸送なんかも行われていたかもしれません。

最後に東庄。
こちらは当時の建物の想像復元です。
桁行5間、梁間2間、切妻平入り、正面に5間のひさし付き。
今でこそ、おや?小屋かい?って程度ですが、当時のレベルでこの規模の建物は相当なサイズだったと考えられます。
うおっ!でけぇー!!(驚)くらいのインパクトはあったでしょう。
用途はやっぱり不明。
多分人が居住して、役所的な使われ方をしてたんじゃないかなー?と思いますが、どうでしょうね。

柱はかなりゴツイのが使われています。
見るからに頑丈そうなヤツ。
ここは雪国ですんでね、冬場の事を考えたらこのくらいの柱は必要だったでしょうね。
今でこそ温暖化で毎年暖冬続きですが、本来は豪雪地帯。
中途半端な柱じゃ耐えられなかったはずです。
ただ加工技術は今ほどじゃないので、実際はもう少しぐんにゃりした建材だったかもしれません。
壁なんかもきれいに塗られていますが、本当はもっとラフなものだったでしょうね。
それこそ数年でボロボロ落ちてくるようなもの。
それを繰り返し修繕して持たせていく、みたいな使い方をしていたことでしょう。

古代日本の社会の様子を今に残す上荒屋史跡。
残念ながら当時から生の姿のままで残っているものはありませんが、その分イマジネーションが働きます。
どこにどんな建物が建っていたのか?
ここでどんな生活が営まれていたのか?
他地域とどう繋がり、どんな交流が行われていたのか?
想像は尽きません。
どうか自分なりの当時の姿を思いっ切り空想しまくってください。
このすぐそばには東大寺領横江荘遺跡という、同年代の遺跡がもうひとつあります。
そこも合わせて訪れれば、さらに古代のロマンが深まりますよ!
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