
大海西山弥生の里 弥生時代のムラ跡を散策
2020年09月07日

かほく市の山地に弥生時代終わり頃のムラの痕跡があります。
今から約1,200年前、そろそろ古墳が発現するくらいの頃。
それが大海西山(おおみにしやま)遺跡です。
現在は現場保全のために大海西山弥生の里として公園整備され、一部復元なども行われています。
ここ結構僻地でしてね、お、行くのか?行くのか?この細い道行くのか?みたいな狭路を通った先にあります。
対向車来たらアウトです。
勇気と譲り合いの精神を持って進んでください。(←?)

まず全体の構成を確認します。
里の造り自体はシンプルで、下に駐車場、そこから徒歩でとことこっと登った先に広場があって、それで終了です。
ただ遺跡全体の規模はこんなものではなく、南北に2ヵ所(南:約13,100平方メートル、北:約13,000平方メートル)が確認されています。
東京ドームが46平方メートルらしいので、280個×2くらいですかね。
なのでこの大海西山弥生の里は遺跡全体のごくご~く一部という事になります。

上の広場へ向かう途中でこんなのがあります。
「環濠(かんごう)」と呼ばれる堀の跡です。
砂利の部分がどうもそうらしいのですが、現在はご覧の通り埋められています。
堀の目的はもちろん防備。
他地域、他部族との争いに備えての防衛ラインでした。
弥生時代は稲作の普及に伴う共同体が形成され、その規模が徐々に大きくなり始めた時期でした。
そうすると一旦それらの集団同士が争いとなった場合の規模も当然大きくなり、備えもそれに合わせた強力かつ大きなものが必要とされました。
こうして生まれたのがムラをぐるりと囲む環濠でした。
ここ大海西山遺跡の場合は、延べ260メートルにも及んでいます。

鉄器の伝来は弥生時代と言われており、単純に考えるとこの頃既に鉄器はあったはずですが、ここは裏日本のド田舎。
この工事に豊富な鉄器が使われたとは考えにくく、恐らくは木とか石とか、ごく原始的な道具を使って建設が進められたものと思われます。
大変でしょうね、そんな効率の悪い道具でこんな山地の斜面を削って、さらに土を積み上げて溝を作るって。
そうとう強力な指導者がいて、かつ必要に迫られていないととても作れない。
それほど安全の確保というのは、当時の人たちにとって切実な死活問題だったのでしょう。

そんな環濠跡を横目に見ながらずんずん登って行くと頂上の広場に出ます。
ここがいきなり開けてまして、向こうまでずばっと見渡せます。
特に海が見える眺めが素晴らしくてね。
ちょっと向こうが日本海なのですよ。
天気のいい日はすご~く気持ちいいですよ!

そんな広場の中ほどに復元された土塁があります。
サイズは幅5メートル、高さ1メートルほど。
かつてはこんなのがムラ全体をぐるーっと囲んでいたんですね。
このタイプのムラは「環濠集落」と呼ばれ、ここ大海西山遺跡だけに留まらず日本全国に見られます。
元々のルーツは大陸にあり、朝鮮から移住して来た人々によってもたらされたと言われています。
規模は大小様々ですが、石川県内に関する限り、ここ大海西山遺跡のものが最大だそうです。

広場の奥に行くと復元住居があります。
バリバリに古代感全開な竪穴式住居。
昔はこんな建物の中に人が住んでいたんですね。
壁はなく、オール屋根。
素材は茅葺で、屋根上両端には煙出しと思われる穴があります。
夏は涼しそうだけど、冬は超~寒そう。

中はこんな感じ。
間仕切りなどなく、土間のひと間。
中央にわざとらしく(←?)土器なんかが置かれていますが、この位置で煮炊きを行っていたということなのでしょう。
左側に立てかけてある一輪車も当然弥生時代のものです。
当時の人々はこんな道具を使って重量物を運搬していました。
・・・んなワケない?(笑)

その復元住居の隣に住居跡があります。
こちらは建物ではなく、建物の形だけが分かるようになっています。
要するに柱の跡ですね。
四角形が一部重なっているのは、2棟の建物があったため。
どっちが先でどっちが後かは分かりませんが、一旦1棟目を建てた後、老朽化で潰れ、新たに建て直したのでしょう。
この頃の建物ってどのくらい持ったんですかね?
柱が掘っ立て柱(地面に直接打ち込む柱)なので、当然根元の腐りは早かったはず。
一般的には20~30年と言われていますが、この当時のものがそんなにもったかどうかはちょっと疑問。
10年もすればガタガタだったんじゃないですかね。

弥生時代のムラの跡が見られる大海西山弥生の里。
竪穴式住居と土塁の復元以外に特に目玉はないですが、でもすごーく雰囲気のいい場所です。
あんまり堅苦しく考えないで、ぜひ散歩気分で遊びに来てください。
なお場所によっては結構蚊がいますので。
夏場は防虫対策も忘れずに!
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