
人道の港 敦賀ムゼウム
2019年10月19日

の~んびりムードの敦賀の港。
その一角に三角屋根の洋風建築があります。
敦賀ムゼウムです。
「ムゼウム」とはポーランド語で「資料館」という意味。
なぜにポーランド?と思われるかもしれませんが、実はここ敦賀はポーランドとものすごーく深い関係をもつ都市なのです。
事は1920年。
第一次世界大戦が終わって2年後。
ロシアのウラジオストクから1隻の船が到着しました。
軍の輸送船「筑前丸」です。
運ばれてきたのはやせ細った子供たち。
彼らはみなポーランドからやって来た孤児でした。
国内情勢が不安定な中、家族や行き場を失った孤児が大量に生まれ、その一部がここ敦賀の港に上陸したのです。
敦賀での滞在期間は短く、わずか数時間、長くても1日程度で、その後鉄道を使って大阪へと移動していきました。
しかしその短い間に、敦賀の人々は食べ物や生活物資・宿泊所など様々な援助を行ったそうです。
当時は日本も戦後間もない混乱期。
ほとんどの人が自分の事だけでいっぱいいっぱいだった中、異国の地からやって来た見ず知らずの子供たちに救いの手を差し伸べるというのはなかなかできることではありません。
博愛の尊さを感じさせるエピソードです。
その20年後の1940年。
もうひとつのドラマが起こります。
場所はリトアニア。
東欧諸国のひとつで、位置的にはポーランドの隣。
その日本人領事館に大量のユダヤ人難民が押し寄せます。
目的はナチスドイツからの迫害を逃れるため、日本への入国ビザ発給を求めてでした。
当時領事館代理を務めていた人物は杉原千畝(すぎうら ちうね)。
この人がまースゴイ人で。
行き場のないユダヤ人を救うために、本国の指示を無視してビザをバンバン発給したのです。(政府はこの時ビザの発給を許可しませんでした)
そしてその「命のビザ」を握り締めてやって来たのが、ここ敦賀港だったのです。
彼らの目にこの地は「悪夢から覚めた楽園」に見えたと言います。
こうして6,000人にも及ぶ命が救われました。
この時は第二次世界大戦の真っただ中。
ドイツとは同盟関係にあったので、かなり微妙な緊張関係をはらむ危険性もあったはず。
当然杉原個人に責任問題がのしかかることは必至。
それを押して人の命を優先する勇気。
もう言葉もありません。
そんな二つの人命救済の舞台となった地。
それが敦賀港。
その歴史を消すことなく、後世に伝えるために作られた施設が敦賀ムゼウムです。
館内は木造二階建ての洋館。
かなり使用感があるので、何かの建物の再利用でしょうね。
どこから見ても教会っぽいんだけど。
1階は敦賀港とそれを取り巻く近代史。
かつての写真と共に、港の発展の歴史が見られます。
2階は難民救済の解説や記録。
当時の状況や訪れた難民の様子などを、写真や遺品を交えながら振り返っています。
特に見て欲しいのが「杉原千畝コーナー」。
ここまでざっと説明してきた経緯を、映像で詳しく見ることができます。
ちょーっと長いのが難点(←笑)なんですが、ひとつひとつの話は実に重く。
戦争は残酷で、でもそんな中でも人の温かさは尊く美しく。
「正しく」生きることの大切さを痛切に感じさせてくれます。
人道の港敦賀ムゼウム。
決して派手な観光スポットではありませんが、人の「心」に触れられる深い深い場所です。
敦賀に来る機会があればぜひ訪れてみてください。
そして。
泣いてください。
別に泣かんでもいいけど(笑)。
人道の港 敦賀ムゼウム
住所:福井県敦賀市金ケ崎町 1-44-1
TEL:0770-37-1035
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