
末松廃寺跡
2019年03月16日

野々市の田んぼ広がる辺鄙なところにポツンと存在する公園。
末松廃寺跡です。
名前の通り「廃寺」なので、お寺はありません。
かつてここにお寺があったという痕跡があるというだけです。
現在は保全目的もあってか、公園として整備されています。
お寺が建てられたのは白鳳時代。
ちょっと聞き慣れん名前ですが、大化の改新(645年)~平城京遷都(710年)までの間の時期の事だそうです。
飛鳥時代後期と言った方が多分ピンと来るでしょう。
仏教が伝来したのが538年または552年。
その後国教として奨励され、全国に布教の拠点となる国分寺が設けられたのが741年以降。
なので時期的には仏教伝来以降~国分寺建立以前という事になりますね。
これはつまり中央政権主導によるものではなく、地方有力者の手によって建てられたものという事になります。
この時代の地方有力者とは道の君(みちのきみ)の事を指し。
まあ今でいえば知事のイメージでしょうか?
知事と言ってもまだまだ中央の支配力が弱かったためか、かなり好き勝手やってたそうです。
例えば高句麗からやってきた使者に対して、天皇を詐称して貢物をかすめ取ったり。
無断で財テクやってボロ儲けしたり。
もーやりたい放題。
けどそれらに対して、中央から強いペナルティが課せられたという記録はなく。
まだまだ中央の属国と言うよりも、独立国家に近い形態だったみたいです。
なお「末松廃寺」という名前ですが。
あくまで便宜上付けられた名称で、このお寺の本当の名前は不明なんだそうです。
ここの地名「末松」にあったお寺なので「末松廃寺」。
本当の名前は何だったんでしょうね?
寺跡の存在自体は江戸時代から既に知られていたらしいのですが、本格的な調査のメスが入ったのは明治以降。
明治44年、大正10年、昭和12年、昭和41・42年と数回に渡って発掘が行われました。
その結果、このお寺は二度に渡って建設されていたことが判明。
最初に建設されたのは7世紀後半頃で、塔、金堂、築地(ついじ)などが設けられていたそうです。
その時の塔は恐らく七重塔であっただろうと言われており、心柱(しんばしら)を支えた唐戸石(からといし)は今もその場所に残っています。
しかし半世紀ほどでいったん姿を消し、8世紀後半頃になって再興。
この時は塔を持たない、以前よりも規模を縮小したものだったそうです。
その二代目も時代の流れと共に姿を消し。
さらに時は流れわずかな痕跡だけが現代に残った、という事です。
公園内には発掘調査を元に、塔や金堂の基壇が再現されています。
建物がないのが少々物足りませんが、雰囲気や広さはなんとな~く感じられるはず。
一歩一歩自分の足で歩きながら、その感覚を確認してみてください。
春には桜がきれいだそうです。
花見ついでにはるか昔のお寺の姿に思いを馳せるってのも。
なかなかに風流で面白いかもしれませんよ。
末松廃寺跡
住所:石川県野々市市末松 2
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