店主たみこの観光案内日記

第四高等学校

2018年09月03日

第四高等学校

 

石川県のイメージって、全国的に見ても地味ぃ~な印象あると思うのですが。
でもね昔はすごかったんですよ、昔は。
「加賀百万石」の名の通り、当時の金沢は国内屈指の大都市で。
江戸、大阪、京都に続く第四の規模。
すごーい「都会」だったんです。

 

その没落が始まったのは明治以降。
維新の嵐が吹き荒れる激動の時代の中、どーしていいか分からん前田の殿さまがアッチ向いたりコッチ向いたり。
徳川と倒幕勢力、どっちつかずの煮え切らない姿勢を取り続け。
気が付いたらカヤの外。
維新政府の中枢からは完全にハネられ、国政に食い込む機会を失い。
結果、その後の都市開発・殖産興業の流れに乗る事ができず、時代の中に埋没。
トップランナーのはるか後塵を拝する、中堅都市としてのポジションが確定してしまったのです。

 

ただそんな中。
ちょびっとだけ他都市より頭ひとつ出ることができた分野もありました。
それが明治31年、陸軍弟九師団の設置による「軍都」としての顔。
そして明治20年、第四高等学校誘致による「学都」としての顔です。

 

明治時代、西洋列強に追いつくために教育の拡充が急がれました。
その一環として取り組まれたのが「ナンバースクール」制度。
まあ今で言うエリート養成校ですな。
ナンバースクールは全国に作られましたが、この第四高等学校は、その中で最も早く作られた5校(東京[第一]、仙台[第二]、京都[第三]、熊本[第五])の内のひとつでした。

 

あ、「第四」の読み方は「だいよん」じゃなく「だいし」です。

 

国内トップ水準の教育を受けた生徒たちは、その後華々しい活躍を遂げ。
林銑十郎や阿部信行といった総理大臣を始め、牧田與一郎(三菱重工業社長)や加藤五一(三井造船社長)といった経済人。
さらに地元出身者では鈴木大拙(仏教学者)、徳田秋声(小説家)、西田幾多郎(哲学者)のような文化人も輩出。
後世に名を残すビッグネームが、この学校から次々と生まれたのです。

 

すごいね。

 

学校自体は第二次大戦後の1950年に閉校とされたそうですが、建物は今も残っていて、それがこのレンガ造りの建物。
イカスでしょ、これ??

 

この建物、西洋で建築を学び、その技術を持ち帰って建てられたものとしてはなんと日本最古。

つまり国産西洋建築の先駆け。

カッコいいだけでなく、歴史的資料としても大変価値のあるものなのです。

 

そもそもレンガ建築と言えば、当時としては最先端の技術。
相当お金もかかったはず。
それだけこの学校に寄せられた期待が大きかったという事なのでしょう。

 

なお聞いた話では、ここで使われているレンガは「金沢製」だそうで。
当時、市内にあった弘益館(こうえきかん)というレンガ工場で焼いたものを使用しているそうです。

 

 

現在は四高記念文化交流館として、県が管理する文化施設となっており。
向かって左側が無料で見学できる「石川四高記念館」、右が有料の「石川近代文学館」となっています。
かつての四高の校風や金沢の近代史なんかが学べますので。
興味のある方はぜひ一度来館して、当時の金沢を味わってみて下さい。

 

 

四高記念文化交流館

住所:石川県金沢市広坂2-2-5

TEL:076-262-5464

 




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